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東京地方裁判所 昭和43年(合わ)358号 判決 1977年3月29日

主文

被告人佐村誠三郎を懲役二年に、同米丸憲文を懲役一年一〇月に、同平野義昭を懲役一年六月に、同坂井恭一を懲役一年にそれぞれ処する。

この裁判の確定した日から、被告人佐村誠三郎及び同米丸憲文に対し各三年間、同平野義昭及び同坂井恭一に対し各二年間右各刑の執行を猶予する。

訴訟費用中、証人山下孫大に支給した分は被告人佐村誠三郎の負担とし、別紙訴訟費用明細書記載の受給者(証人)に支給した分はこれを六分し、その一宛を被告人佐村誠三郎、同米丸憲文、同平野義昭及び同坂井恭一の各負担とする。

被告人澤田進、同塙史彰は無罪。

理由

(犯行に至る経緯)

学校法人日本大学では、学則三一条により学内における集会、掲示、印刷物の刊行等について許可制をとり、学生会が編集する雑誌の記事を変更あるいは削除させたり、その企画した研究発表会や講演会等もその題目や講師のいかんによりこれを許可しないなど、学生の自治活動を制限していたことから学生らの間に不満がくすぶつていたが、昭和四三年四月中ころ、同大学には約二〇億円の使途不明金があるとの新聞報道がなされたのを契機として、学生らの同大学会頭古田重二良ら大学理事者らに対する疑惑と怒りが高まり、学生会や研究団体などが学内を民主化しようとの意図のもとに、大学当局に対し、右使途不明金問題や学則三一条の取扱などについて、大衆団交を要求し、大学当局が調査中であることを理由に的確な回答をしなかつたこともあつて、当時同大学経済学部学生会執行委員長であつた秋田明大らは大学当局に対する抗議行動の一環として同年五月二一日ころから東京都千代田区三崎町一丁目三番二号同学部本館(一号館ともいう。以下、本館という)内に多数の学生を集めて集会を重ねるに至つた。ところが、右集会に対し、体育会系学生と見られる者から妨害があつて集会が混乱に陥るや、大学当局はその責を右秋田らに帰し、これらの者を自宅謹慎処分に付したため、学生らの大学当局に対する不信は深まり、学生らは同月末には全学共闘会議(以下、全共闘という)及び各学部闘争委員会を発足させ、秋田明大を全共闘の議長として、(1)全理事の総退陣(2)経理の全面公開(3)不当処分白紙撤回(4)集会の自由を認めよ、との要求を掲げて、大学当局にいわゆる大衆団交を要求するようになつた。そして、同年六月一一日、全共闘派学生らが全学部総決起集会を開いた際、本館内にいた体育会系学生と見られる者らが全共闘派学生らに対し牛乳壜、砲丸投ボール、机、椅子等などを投下したり、木刀で殴つたりして多数の全共闘派学生を負傷させ、しかも、その際出動した警察機動隊が専ら、その痛手を受けた全共闘派の学生を排除したため、学生らは大学当局に対してはもとより、機動隊に対しても強く反感を抱くようになり、遂に翌一二日、経済学部闘争委員会を中心とする全共闘は同大学の管理を排して本館を占拠し、その入口に机、椅子などでバリケードを築いて封鎖したうえ、泊込むに至つた。その後、大学当局と全共闘とは、大衆団交の開催を巡つて予備折衝を行い、同月二〇日、両者の間で、八月四日に同大学法学部一号館において、大衆団交を行うことを確認したが、大学当局は、右紛争の解決の糸口が見出せないまま、同年七月下旬、弁護士に本館などの妨害排除の仮処分の申請を依頼すると共に右約束を破棄し、同年八月末全共闘に対し、前記封鎖を解除するよう通告した。そして、右依頼を受けた債権者代理人は、同月三〇日、東京地方裁判所に対し、右仮処分の申請をなし、同年九月二日、同裁判所民事第九部は、右申請を認容し、全共闘及び経済学部闘争委員会等を債務者とし、債務者らの本館等の土地、建物に対する占有を解いて債権者の申立を受けた執行官にその保管を命ずる等を内容とする仮処分の、次いで同月三日、その夜間執行を許可する旨の各決定をなし、右債権者代理人は、同日、同裁判所執行官に対し、その執行の申立を行なつたが、執行官は、執行の際強い抵抗があるものと判断し、同日警視庁神田警察署長に対し、民事訴訟法五三六条二項により援助のための警察官の出動要請を行つたうえ、執行開始を同月四日午前五時と決めた。

当時、被告人佐村、同米丸、同平野は、同大学経済学部三年、被告人坂井は同大学法学部三年にそれぞれ在学中のものであつて、被告人佐村は全共闘に所属し、経済学部三年闘争委員会(以下、三闘委という)の班長として、被告人米丸は全共闘の食対班として、それぞれ右闘争に参加し、被告人平野、同坂井は、いずれも同大学文理学部写真研究会員で、全共闘には所属していなかつたが、その闘争方針に共鳴し、全共闘写真班の名目で封鎖占拠中の本館に出入し、全共闘の一連の闘争経過を撮影記録していたものである。

(罪となるべき事実)

第一  被告人佐村について

被告人佐村は、前記のとおり三闘委の班長であり、同年九月三日ころは本館に泊込んでいたものであるが、前記仮処分の執行が行われることを察知した秋田明大ら全共闘の幹部は、同月四日午前三時ころ、本館三三番教室に全共闘の学生を集め、右仮処分の執行を阻止するため、その執行にあたる執行官及びその援助にあたる警視庁機動隊の警察官らに対し、投石、投壜などを行つて徹底的に抵抗しようとの提案をなし、同教室に集まつた被告人佐村を含む約六〇名の全共闘の学生らはこれに賛同し、ここに同被告人は、約六〇名の全共闘の学生らと意思を相通じ、右執行官及び警察官らに暴行を加えてその職務の執行を妨害することを共謀し、そのころ同被告人の持場である本館三階の配置に付いた。他方、東京地方裁判所執行官田中利正外数名及び同職務代行者金子和喜は、同日午前五時前、執行補助者数名、債権者代理人、日本大学職員らと共に本館東南角に赴き、同五時ころ右職務代行者金子和喜において、マイクで、前記仮処分決定の全文を朗読すると共に、同館内にいる学生らに対し、バリケードを除去して、速やかに本館から退去するよう促したが、右学生らに、これに応ずる気配がなかつたため、同五時二〇分ころ、右学生らに対し強制執行を行う旨を告げ、直ちに右執行補助者らをして、同館南側正面玄関付近に接近せしめ、更に、同日午前五時二二分ころ、前記のとおり出動の要請を受けて付近に待機していた警視庁機動隊指揮官に対し、民事訴訟法五三六条二項により援助の要請をなし、同指揮官は、これを受けて、同五時二八分ころ、警視庁第二機動隊長警視三沢由之指揮下の多数の警察官を二手に分け、これを本館東南角及び同東北角の両面から接近させると共に、同第五機動隊長警視青柳敏夫指揮下の約一三〇名の警察官を、同館北側一階エレベーターホールの窓から館内に進入させるべく同館北側から接近させ、執行官らは、右警察官らの援助のもとに執行補助者都築幸次外数名を使用して右本館に対する右仮処分の執行を行つた。これに対し、被告人佐村を含む前記多数の学生らは、同日午前五時二〇分ころから同六時一五分ころまでの間、前記共謀に基づき、同館周辺において前記各職務に従事中の執行官及び警察官らに対し、同建物内二階ベランダ、三、四階窓及び四階屋上などから多数の石塊、コンクリート破片、牛乳壜、椅子などを投げつけたり、放水したりして暴行を加え、なお、その間、被告人佐村は、同館北側の幅員約八〇センチメートルの路地(以下、本件路地という)内で、頭上に楯をかざして数珠つなぎになり、右一階エレベーターホール窓から同館内に進入しようとしていた前記第五機動隊第二中隊所属の警察官約四〇名を認め、同時四〇分ころ、同館五階北側エレベーターホール窓付近に居た被告人米丸、同平野及び同坂井ら数名の者とも順次前記共謀の意思を相通じ、同時刻ころから同午前五時四五分ころまでの間、同ホール窓から、右路地内に密集している警察官らめがけて、同所に準備してあつた重さ数キログラムに及ぶレンガ、コンクリート塊、コンクリートブロツク塊などを多数回投下して暴行を加え、もつて前記執行官及び警察官らの職務の執行を妨害すると共に、右五階北側エレベーターホール窓からレンガ塊などを投下した暴行により、別紙受傷警察官一覧表1ないし6記載のとおり、前記第五機動隊所属の巡査部長中村良隆ら六名に対し、加療約一週間ないし約四か月間を要する左前腕及び右手背、右下腿打撲等の各傷害を負わせたものである。

第二  被告人米丸、同平野、同坂井について

被告人米丸は全共闘の食対班として同月二日から、同平野及び同坂井は全共闘の写真班として写真撮影のため同月三日から、それぞれ本館に泊り込んでいたが、同月四日午前五時四〇分ころ、被告人米丸は、本館五階北側エレベーターホール付近において、機動隊員らが一階北側エレベーターホール窓から館内に進入しつつあるのを阻止するため、付近にいた全共闘の学生らと共に、被告人平野、同坂井らに声をかけて協力を強く求め、一方被告人平野、同坂井の両名は、当初は写真撮影に専念するつもりでいたものの、全共闘の学生らが一丸となつて機動隊と激しい攻防を繰広げるのを目撃して、次第に全共闘学生らに同調する気持となつていた折柄、被告人米丸らから協力を求められてこれを承諾し、ここに被告人米丸、同平野、同坂井の三名は、そこに居た被告人佐村ら数名の学生らと意思を相通じ、右警察官らに投石などをして暴行を加えその職務の執行を妨害することを共謀し、同日午前五時四〇分ころから同五時四五分ころまでの間、同ホール窓から、右路地内に密集している警察官らめがけて、同所に準備してあつた重さ数キログラムに及ぶレンガ、コンクリート塊、コンクリートブロック塊などを多数回投下して暴行を加え、もつて右警察官らの職務の執行を妨害すると共に、その際の右暴行により、別紙受傷警察官一覧表1ないし6記載のとおり、前記第五機動隊所属の巡査部長中村良隆ら六名に対し、加療約一週間ないし約四か月間を要する左前腕及び右手背、右下腿打撲等の各傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)(省略)

(法令の適用)

被告人四名の判示各所為中、公務執行妨害の点は包括して、刑法六〇条、九五条一項に、各傷害の点は各同法六〇条、二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号に各該当するところ、右公務執行妨害と右各傷害とは一個の行為で数個の罪名に触れる場合なので刑法五四条一項前段、一〇条により最も重い及川善喜に対する傷害罪につき定めた懲役刑で処断することとし、その所定刑期の範囲内で被告人佐村を懲役二年に、同米丸を懲役一年一〇月に、同平野を懲役一年六月に、同坂井を懲役一年に各処し、情状により同法二五条一項を各適用してこの裁判の確定した日から、被告人佐村及び同米丸に対し各三年間、同平野及び同坂井に対し各二年間右各刑の執行を猶予し、訴訟費用中、証人山下孫大に支給した分は刑事訴訟法一八一条一項本文により被告人佐村の負担とし、別紙訴訟費用明細書記載の受給者に支給した分は同条項によりこれを六分し、その一宛を被告人佐村、同米丸、同平野及び同坂井の各負担とする。

(公訴事実に対する判断)

被告人ら六名に対する本件公訴事実(但し、被告人佐村については、昭和四三年一二月一三日付起訴状記載の公訴事実)の要旨は、

被告人らは、昭和四三年九月四日早朝、東京地方裁判所がなした日本大学経済学部本館の占有排除などの仮処分決定執行のため右経済学部本館に赴いた右裁判所執行官一行のうち、執行官補助者都築幸次らが、同館一階北側エレベーターホール窓から右仮処分の執行を開始した際、右執行官よりの援助要請に基づき出動中の警視庁第五機動隊第四、三、二中隊所属の警察官約一三〇名が、右執行を援助するため同館北側路地から右一階エレベーターホール窓を破壊して同館内に進入しつつあるのを認めるや、同館五階北側窓付近に来合わせた者らと共謀のうえ、同日午前五時三〇分ころから同五時五〇分過ぎころまでの間、同館五階北側エレベーターホール窓から、かねて同所付近に準備してあつた重さ数キログラムから十数キログラムのレンガ、コンクリート塊、コンクリートブロツク塊等数十個を、同館内に逐次進入するため右路地内に密集していた前記警察官らめがけて投下し、もつて前記警察官らの職務の執行を妨害し、その際、同機動隊所属の警察官である森岡(現在荏原)康、脇本義弘、星巖、阿部武美、志水正幸、酒井湧平、小原秀孔、西城秋夫、坂入照夫、徳永正樹、矢吹剛徳、田北弘道、中村良隆、北川清逸、穂満弘二、藤川正美、及川善喜、望月一男の一八名に対し、加療約一週間ないし一〇か月を要する頚椎骨折等の傷害を負わせ、同西條秀雄に対しては左前頭部頭蓋骨々折、脳挫傷の傷害を負わせたうえ、同月二九日午前一一時ころ東京警察病院において、右傷害に基づく外傷性脳機能障害により死亡するに至らしめたものである。

というのである。

ところで、検察官は、右警察官の受傷が右五階エレベーターホールの窓からの投石(以下、エレベーターホールからの投石という)によるものであり、かつ被告人らの現場共謀による犯行であることは関係証拠によつて明らかであるとし、共犯者の供述特に重要な証拠として八木幸治の検察官に対する供述調書謄本九通(以下、八木の検面調書又は八木調書という。なお、その余の者の検察官に対する供述調書もその例による)を挙げ、同供述が極めて信憑性の高いものであると主張するのに対し、弁護人はこれを全面的に争い、被告人塙及び同沢田は犯行現場には全く行つていないし、他の四名の被告人も右エレベーターホールに行つたことはあるが、全く投石していないか、警察官らの受傷時刻の後に行つたものであつて、罪責を問われるいわれはないとし、その理由として被告人らのアリバイを主張する外、警察官らの受傷場所からみてその受傷は右エレベーターホールからの投石によるものと言えないものがあるだけでなく、受傷時刻は九月四日午前五時三〇分ころから同五時四〇分ころまでの間であり、ことに西條秀雄巡査部長のそれは同五時三六分ころと推定されるところ、八木は同五時四〇分過ぎから同四五分ころまで現場に居たに過ぎないから共犯者とされる被告人らに傷害致死の責任を問えないことは勿論、傷害についても同様であるとし、そもそも検察官が最重要として挙げる八木調書は同人のそれ以前に作成された検面調書と全く矛盾するばかりか、その現場に居るはずのない高橋克美が盛んに投石をしていたなどと詳細に述べているのであるから到底信用できないし、他の共犯者の供述調書も八木調書をもとにして検察官の誘導によつて作成されたものであるから同様に信用できない、と反論するので、以下この点について検討する。

一  警察官の受傷について

(一)  まず、受賞内容についてみると、前掲公判調書中の各証人の供述部分(以下、証人の証言と略記する)、診断書、鑑定書及びその他の関係証拠によると、検察官主張のとおり、判示執行の援助にあたつた警視庁第五機動隊所属の巡査森岡康ら一八名が本件路地において加療約一週間ないし一〇か月間を要する傷害を負つたこと及び同機動隊所属の巡査部長西條秀雄が同所で左前頭部頭蓋骨々折、脳挫傷の傷害を負つて、昭和四三年九月二九日午前一一時ころ、東京都千代田区富士見二丁目一〇番四一号東京警察病院において、右傷害に基づく外傷性脳機能障害により死亡したことが認められる。

(二)  そこで、その受傷原因について検討するのに、証人脇本義弘ら受傷警察官の証言によれば、本件受傷者らは、いずれも本館北側エレベーターホール窓の直下あるいは、そこから二、三メートル西寄りの、右窓に比較的近い場所で、強い衝撃力を伴う、ほぼ真上方向からの落下物によつて受傷したことが認められ、右受傷時の受傷者の位置関係、投石物の内容及び投石状況並びに木村政治作成の実況見分調書謄本によつて認められる各階の窓の状況特に西側小窓とエレベーターホール窓との位置関係、西條巡査部長の受傷場所及び本件路地の状況特に投下物の散乱状況等を総合すれば、前記受傷者はいずれも五階北側エレベーターホール窓からの投石により受傷したと認めるのが相当である。もつとも、証人阿部の証言中には「便所の窓前」、証人小原の証言中には「エレベーターホール窓の西方五ないし六メートルの地点から同窓までの間」、証人西城及び同矢吹の各証言中には「路地入口から七ないし八メートル奥」の路地内各地点でそれぞれ受傷したと供述している部分があることは弁護人所論のとおりであるけれども、右供述が数学的な正確さで述べられたものでないことは弁護人も認めるところであり、前記受傷警察官らの証言によれば、阿部は四中隊の最後部で入館したものであり、それまで四中隊の隊員はいずれもエレベーターホールの窓から入つていることが明らかであるから同人が一人、北側便所窓から入館しようとしたとは認め難く、同人もまたエレベーターホールの窓から入館しようとして受傷したと認めるのが相当であつて、それを便所の窓と述べたのは当時同人が便所の窓から入館すると事前に知らされていたことによるものと認められるし、また、小原、西城及び矢吹については、同人らは、概ね、志水、酒井、小原、西城、西條、徳永、坂入、矢吹、田北の順で進行し、西條はエレベーターホール窓の西方約八〇センチメートルの路地で負傷したこと、徳永は受傷直後レンガ塊が西條の頭部を直撃したのを目の当りにし、坂入は頭部に石塊を受けた直後二、三歩前進した時、そこに西條が倒れているのに気付いたこと、小原の直前にいたと思われる志水及び酒井が受傷した場所はエレベーターホールの直前であつたこと、小原はエレベーターホールの二メートル位手前に来た時、直後にいた西城が「小原ちやん、やられた」というので、直ちに同人を窓から同ホールに入れ、自らも入館しようとしたところ、背後に受傷した西條が倒れかかつてきたので、更に坂入と二人で西條を抱きかかえて同ホールに入れたのに入館したこと、矢吹は受傷直後坂入が負傷者を救助しているのを認めて加勢しようとしたができず、間もなく自分も同ホール窓から入館したこと、右窓西側から小窓東側までの距離は約九・九〇メートルであつて、小窓の東側付近では殆どレンガやブロック塊の投下はなく、エレベーターホールに近付くとそれが激しくなつたことが認められ、これらの事実に照せば右小原、西城及び矢吹らの受傷場所がエレベーターホールに近い地点であつたことが認められ、前記阿部、小原、西城及び矢吹の冒頭供述部分はその受傷地点を的確に表現したものとはいえず、この供述部分があるからといつて、前記認定を左右するものではない。

(三)  次に、その受傷時刻について検討するのに、佐藤武及び根本安の各検面調書、証人根本安の証言、今正廣及び須川哲男作成の各写真撮影報告書謄本(特に今写真No.24、須川写真No.26ないしNo.28。以下、同様に略記する)並びに前掲各証拠によると、同日午前五時二八分ころ、第五機動隊長の命令に基づき、本館北側の日本バプテスト教会前に待機していた同機動隊員約一三〇名(四、三、二の各中隊で、各中隊とも約四〇名の編成)のうち、四中隊に所属する工作班数名が本件路地内に進入したところ、同館二階西側ベランダにいた学生らがその工作班員をめがけて投壜を開始したこと、右学生らに対する放水車による放水が始まつた同五時三〇分ころ、同館一階北側エレベーターホールの窓が開いたため、工作班のあとに同機動隊が四、三、二中隊の順で順次本件路地内に進入したこと、四中隊員であつて、当時同機動隊の記録係であつた佐藤武が四中隊員と行動を共にし、右窓から入館したのが同五時三五分であり、同中隊員がほぼ入館を完了して同ホールに集合したのが同五時三六分ころであつたこと、四中隊に続いて路地内に進入した三中隊の中で受傷した者の進入の順序は、ほぼ志水、酒井、小原、西城、西條、徳永、坂入、矢吹、田北の順であり、志水は三中隊では三、四番目、小原は五、六番目、矢吹は中程、田北は最後尾であつたこと、三中隊では一〇番目位に位置していたとみられる坂入が路地内で同五時三五分になるのを確認した直後受傷し、更に西條が負傷しているのに気付き、前述のとおり小原と二人で前記窓から同ホールに西條を抱え入れたのち、自らも入館したこと、田北に引続き二中隊が進入を開始し、同中隊の先頭部分に位置して進入、入館した第五機動隊特務係写真担当の中村が、路地進入前、最後に写真を撮影した時刻が同五時三一分であり、入館後館内の状況の撮影を開始したのは同五時四五分ころであつて、それは入館後二、三分経過してからであつたこと、二中隊の中で受傷した者の進入の順序は概ね右中村、北川、穂満、藤川、及川、望月の順であり、北川は中村と相前後し、二中隊の先頭部分、藤川、及川、望月はその比較的後尾にそれぞれ位置し、及川、望月の両名は前記窓付近で負傷して共に気を失い、我に帰つたときには白川通りに連出されていたこと、その間同機動隊副隊長であつた根本安は、前記五階エレベーターホール窓からの路地内への投石が余りにも激しかつたため、一旦隊員に退却を命じたが、その時刻は前記放水車による放水を中止した同五時四三分から逆算して同五時三九分前後であり、消火栓による放水に切替えた後の同五時四五分ころには右路地内の機動隊員は殆どそこから退却して既に本件路地内に居なかつたことがいずれも認められる。

右事実からすれば、前記警察官の受傷した時間帯は、同五時三〇分ころから同五時四五分ころまでの間であり、そのうち、四中隊員が入館したのは同五時三〇分ころから同五時三五分過ぎまでの間であつて、三中隊員の先頭部分は同五時三五分台には入館し始めていたことになり、二中隊の先頭部分にいた中村がほぼ同五時四〇分過ぎころに入館したと認められるから、前記三中隊員は同五時三五分ころから同五時四〇分過ぎころまでに、同二中隊員は同五時四〇分過ぎごろから同五時四五分ころまでの間にいずれも受傷したものと認められる。

二  八木幸治の行動及び八木調書の信憑性について、

次に、八木調書の信憑性について検討することとするが、ここでは、八木がエレベーターホールで投石するに至る経緯、特にその動機と時間的順序及び同ホールにおける高橋克美の投石状況等に関する認識を中心に検討し、同ホールにおける被告人らに対する認識については、各被告人の行為を検討する際、必要な範囲で見ることとする。

(一)  証人八木は、公判廷において、大要次のとおり供述している。即ち、「自分は、当時日本大学経済学部三年生で、写真部員兼アルバム編集委員として活動していたが、前日から取材のため本館に泊込んでいたところ、時間ははつきりしないが本館三三番教室で集会があり、そこで秋田外何名かが演説をしたがその詳細は覚えておらず、どの段階か判然としないが封鎖解除のため機動隊が導入されるということが判つた。当日早朝、妨害排除のための仮処分の執行が行われ、これを援助した機動隊と全共闘との間に衝突が生じ、自分は同僚の沖田淳と一緒に同館四階屋上などから写真を撮り、その間どの段階かはつきりしないが、機動隊を入れたくないという気持から同館四階屋上東側、北東側、南東側及び同館五階北側エレベーターホール窓から投石、投壜をした。同エレベーターホールでの投石の際、外の学生も投石していたが、当時夢中であり、又現在では時間の経過も著しいため、それが誰であつたか全く記憶していない。なお、当時、吉田光男、沖田淳、被告人平野、同坂井、全共闘の秋田明大、館野利治及び矢部某は面識があつたが、高橋克美及びその余の被告人四名は知らなかつた。検面調書の作成時には、現在よりも記憶が残つていた。しかし、検面調書には、検察官から誘導されたり、押しつけられたりしたため、はつきりしないのに認めるような供述をし、それが断定的に記載された部分があり、写真部員以外の共犯者について特定したようになつているのは被疑者併列写真集を見せられ、その容貌とか服装とかをあやふやなまま述べたものである」と供述する。

(二)  そこで、八木調書の主要なものを順次見て行くこととする。

1 八木の昭和四三年九月一三日付(以下、調書等の日付は、43・9・13の如く略記する。)検面調書の要旨は次の通りである。即ち、「自分は本館四階屋上東南角(以下、<1>という。)で、仮処分決定の告知状況や同執行の援助のため同一階東南角付近に向かつて動きはじめた機動隊の状況を、次いで、同屋上金網西側通路の最北端(以下、<2>という)の地点で、白山通りにいる機動隊員を、再び<1>地点に戻り、東光電気工事株式会社(以下、東光電気という)付近にいた放水車の放水状況を、同屋上金網東南角付近(以下、<3>という)で、東光電気付近の機動隊の状況を順次撮影したのち、そこから本館東北角付近にいた約三〇名位の機動隊員めがけて投石したが当らなかつたため、同屋上東北角(以下、<4>という)に移動し、再び同機動隊員に投石した。その後同日午前六時五分過ぎと思われるが、<1>地点に行くと、二、三の全共闘の学生が東光電気付近にいた放水車めがけて投壜しており、自分も四本のフアンタの空壜を渡されて投下した。その間沖田と殆ど行動を共にした。」という。

以上のとおり、この段階では、エレベーターホールでの投石及び沖田以外の共犯者については触れておらず、また、後記のとおり、<3>、<4>、<1>の地点における投石、投壜の順序及び<1>の投壜時間に関する供述記載が、後の調書で訂正されている。

2 ところで、八木が公務執行妨害罪で起訴された後の43・9・18付検面調書によると、「自分は投石のため前記<3>から<4>に向かつたところ、途中で被告人佐村から『こつちが大変だ、こつちへ来い。』と言われ、<2>点で、本館一号館便所窓付近及び前記日本バプテスト教会にいた作業員めがけて石塊を投下した。その後<4>地点で投石中、白山通りから本館一階エレベーターホールか、その脇の便所付近の路地内に多数の機動隊員が進入してくるのを認め、これを撃退するため、本館北側エレベーターホールの窓付近(以下、<5>という)に赴き、そこから被告人米丸、同坂井、同沢田、同塙、高橋克美と共に投石をした。五分位して被告人平野もそこに来て投石に参加した。その際高橋は『石を持つてこいよ』と言い、被告人佐村も『もつと沢山投げろ』と言つていたが、同被告人が投げたかどうかは見ていない。自分が右<5>地点に来たのは同日午前五時三〇分ころであり、路地の機動隊員が白山通りに退却するまでの約二〇分間に三〇ないし四〇個位の石塊などを投下した。」というのであり、この段階から沖田以外の共犯者らの名を挙げ、その行動を供述しはじめている(司法警察員に対しては、43・9・15調書から)こと、投石の順序は場所的に言えば、<3>→<2>→<4>→<5>→<1>の順と変化していることの外は、概ね前回通りの供述をしており、八木の43・9・19付検面調書では、<4>地点で認めた機動隊の位置は前記便所の窓付近でなく、エレベーターホール窓付近の路地内であると訂正し、また、<4>から<5>に行くときには、消火栓の作業をしていた被告人平野や同佐村の脇を黙つて通り抜けたと明確にしている。

以上の供述記載から特徴的なことを指摘しておくと、まず第一に、この段階で初めて、<2>、<5>地点の投石行為を述べるに至り、<2>の投石は被告人佐村から協力を求められたものであるのに対し、<5>の投石は路地内に進入した機動隊員を認め、自らこれを撃退しなければならないと考えたことによると述べていること、第二に、右供述は写真の撮影順序などを検討して述べられているのに前回同様投石順序が誤りであることは後述のとおりである。

3 殺人罪等で再逮捕されたのちの八木の43・12・3付検面調書(図面添付のもの)には、「自分は沖田らと共に前記<4>地点で作業員や機動隊員めがけて投石をしているうち、白山通りから本件路地内に機動隊員が進入しようとしているのを認め、<2>地点に来て、その機動隊員の写真を撮つたりしていたが、右機動隊員に放水をしていた被告人佐村が前記エレベーターホールに向かつたので、沖田らと共にそのあとに続き、同所から四階屋上中央付近の花壇まで引返したとき、同エレベーターホール北側窓付近で投石していた目の鋭い男(高橋克美)から『早く石を持つてこい』と怒鳴られたので、大きなブロツク塊(縦四〇糎、横二〇糎四方)を運んでいたところ、先に着いた被告人佐村が『こつちが大変だ。早くこつちにこい』とか、『もつとどんどん投げろ』と怒鳴つていた。そして、同被告人も投石していた。」との記載があり、その余については八木が<2>地点で投石を行つたとの記載がないことの外は、従来の供述と同内容の記載がある。

以上の供述記載と前回のそれとを比べると、エレベーターホールの投石時間及びそれまでの時間的な経緯は変らないけれども、八木が投石をした契機は従前のそれと大きく変り、被告人佐村についていき、同被告人や高橋克美からけしかけられて、投石や石塊の運搬を行つたことになつており、また、前回の供述と異なり、投石したかどうか見ていないとされていた被告人佐村が具体的にどのように投石したかについては触れていないが投石をしたと述べられている。

4 八木の43・12・4、5付検面調書には、「自分は<2>地点で機動隊が白山通りから本件路地に進入してくる状況を撮影(小川均作成の「写真焼増並びに写真撮影位置の捜査結果について」と題する書面((以下、小川写真という))中写真番号B―2。)した直後、被告人佐村から『こつちが大変だ。こつちに来い』といわれたので前記エレベーターホールに向かつた。高橋克美は沖田にも『もつとどんどん石を持つてこい』といつていた。自分が<5>地点で午前五時三〇分ころから一〇分位の間、約二〇回位投石をしているうちに、路地内にいた機動隊員が退却をはじめたので、<1>地点に行き小川写真B―3を撮影した。」旨記載されている外、前回と同内容の記載がある。

5 八木の43・12・8付検面調書には、「自分は<4>地点付近で、前記教会内にいる人夫風の男が本件路地に入り込もうとしているのを認め、ブロツク塊を投下したら人夫は身を隠したが、それはエレベーターホールの投石より前であつたように思われる(投石場所は東北角になつているが、その内容は前記<2>地点の投石に相当する)。<1>地点で下の放水車めがけてフアンタの壜を四本位投下したことがあつたが、それはエレベーターホールの投石の直前であつたように思われる。そして、東南角付近で、前記小川写真B―6を撮影した直後、被告人佐村から『こつちが大変だ。早くこつちに来い』と言われ、同人のあとを追つてエレベーターホール(<5>)に赴き投石をした。投石時間は午前五時三〇分か、同時三五分ころから五ないし一〇分間程度であり、そこで投石していると路地内の白山通り寄りにいた機動隊員が路地から出る状況が見えたので、そこを離れた。同ホールでの投石はその機会だけであり、途中で写真を撮つたというようなことはなく、同写真B―2を撮つたあと同ホールへ行つたとの従前の供述は記憶違いである。前記<3>地点で、本館東北角付近にいた約三〇名位の機動隊員を目がけてブロツク塊を投下したのは右エレベーターホールの投石後であるように思われる。前記<4>地点で下の機動隊員を目がけてブロツク塊を投下したのは午前六時ころである。」との記載がある。

右投石の順序ないし時間帯は後記のとおり客観的事実に概ね符合するのであるが、右記載は従来の供述記載とは明らかに異つており、供述の変遷の著しいことが注目される。

(三)  前記のとおり被害者のエレベーターホールからの投石による受傷時刻は当日午前五時三〇分ころから同五時四五分ころまでの間と推認されるところ、八木がエレベーターホールで投石をしたことは当事者間に争いがなく、証拠上も明らかであるが、その投石時間については冒頭に述べたように当事者間に厳しい対立があり、同人は当初、同五時三〇分ころから二〇分間位エレベーターホールで投石したと述べていたが、後にはそれが同五時三〇分か三五分ころから五ないし一〇分間位であつたと変更するに至つており、その他の場所における投石との前後関係の認識についても混乱がみられるので、以下同人が撮影したことが証拠上明らかな写真(小川写真中A、Bの符号が付されているもの。なお、小川写真中C、Dの符号が付されているものは沖田淳が撮影したもの)及び関係証拠を手懸りに八木がエレベーターホールで投石した時間について検討する。

1 前記小川写真、証人八木、同沖田、同根本及び同田中利正の各証言及び八木、沖田、根本の各検面調書によると、執行官らは、当日午前五時ころ、仮処分決定の告知をし、債務者である全共闘の学生に任意の履行を促したが応じないので、同五時二〇分過ぎその執行を開始したこと、その際、八木及び沖田が右の状況を目撃し、本館四階又はその屋上の東南角や西南角でその状況を写真撮影した(小川写真A―1ないしA―12、B―1、C―5ないしC―32)ことが認められ、右写真のうち、B―1、C―31、C―32は、警視庁第二機動隊が、東光電気と日本大学経済学部第二号館との間の路上を進行してきて、本館手前の同路上で待機している場面であつて、右機動隊が援助活動に入る少し前のものと認められ、この三枚の写真撮影の時間的順序は鳥籠様の防石除け(以下、鳥籠という。)の位置からみて、C―31、C―32、B―1の順であると認められる。

2 そして、小川写真、八木、沖田の各検面調書及び証人根本安、同都築幸次の各証言によると、小川写真C―33、C―34は、執行補助者が本館北側の日本バプテスト教会からブロツク塀を乗り越えて本館に進入しようとしている状況を沖田が四階屋上北側金網付近から撮影したものであり、また、小川写真B―2は、第五機動隊員が白山通りから本件路地に入りはじめた状況を八木が四階屋上北側金網付近から撮影したものであつて、執行補助者及び第五機動隊の行動経過に徴し、右C―33、C―34は同午前五時二五分ころ、右B―2は同時二八分ころの状況と認められるから、八木、沖田の両名はそれぞれ、その時間帯に右四階屋上金網北側にいたものと認められる。

3 ところで、沖田の43・12・17付検面調書には、「東北部にはせいぜい五分位いて、再び東側南寄り付近に行き、真下の辺りに機動隊が檻の様な中に入つて接近して来るのに対し、スチール製の椅子が投げられたりした状況を二枚写しました。それが小川写真C―35、C―36です。」との記載があるところ、右C―35、C―36の写真の状況は、小川写真B―10、C―25と対比すると、後部の建物、脚立、折たたみ椅子の状況が全く同じであつて、株式会社伊豆急サービス前の状況であると認められる。そして、その鳥籠の位置、状況は、岩田写真一―24の状況と酷似しており、小川写真C―31、C―32、B―1、岩田写真三―18、19(同拡大写真二―18、19)、同一―22ないし24を比較対照すると、概ねその順序で前記二号館脇の路上にあつた鳥籠が右伊豆急サービス前まで前進したものであることが明らかであり、右岩田写真三―18、19は、井上写真No.8(午前五時二七分ころ撮影)、狩野写真No.6(同二八分ころ撮影)とほぼ同様の状況であるから、その後の進行状況からして右C―35、C―36の撮影時刻は午前五時二九分前後と推定される。

そうすると、前記沖田の検面調書の記載のとおり、沖田は午前五時二五分前後の数分間四階屋上金網の東北角付近に居たのち、同二九分ころには同屋上東南角付近に移動していたことが明らかである。

4 また、沖田の前記検面調書には、引続き「自分は東南角に移動しながら、東光電気前の四辻に放水車が現われ、一号館二、三階辺りに放水している状況を、次々に撮影し、途中で私自身も八木さんらと一緒に放水車に投壜し、そのあとまた、放水車や四辻の情況を撮影した。この時の写真が小川写真のD―2ないしD―18です。放水車に投壜をしたのはD―11を撮つたすぐ後位でした。C―35の写真からD―18の写真を撮るまでの時間は約一〇分弱であつたと思います。そのあと、全共闘の学生から石運びを手伝つてくれと怒鳴られて、吉田さんらと一緒にエレベーターホールに行き、石運びをしたり、それを投下したりした。」との記載があるが、右D―2ないしD―18及び同写真の状況に符合すると認められる前記岩田写真一―25ないし30、同三―24ないし30及び司法警察員中島敏作成の実況見分調書添付の見取図によると、(Ⅰ)東光電気とFRB食品との間の、東光電気の西北角付近路上に大型放水車(車両番号は、一部判然としないが、10―20の部分は明瞭である)を止め(岩田写真三―24)、(Ⅱ)間もなく本館二階ベランダ付近めがけて放水を始め(同一―25ないし28、同三―25ないし27、D―2ないしD―12)、そのうち、(Ⅲ)小型放水車(車両番号は判然としないが19の部分は明瞭である)を右大型放水車の右にほぼ併列させ(岩田写真一―29)、(Ⅳ)同時放水を始め(岩田写真三―28、D―13ないしD―15)、(Ⅴ)大型放水車の放水が止まつて、小型放水車の放水のみとなり(同岩田写真三―29、30、D―16、D―17)、(Ⅵ)両車両ともその場から姿を消した(同岩田写真一―30、D―18)状況があつたことが認められる。そして、八木が撮影したと認められる小川写真B―3は、そのあとの同B―4と比べると明らかなように、大型車のみが放水している右(Ⅱ)の状況、即ち、前記岩田写真一―25ないし28、同三―25ないし27、小川写真D―2ないしD―12の状況に相当することが明らかであつて、右状況に符合する斎藤写真No.9(午前五時三一分ころ撮影)及び井上写真No.9(同三三分ころ撮影)からすると、午前五時三一分ころから同三三分ころの状況であることが明らかである。

次に右岩田写真三―29、30及びその拡大写真二―29、30を43・9・5付西尾写真No.15、二階堂写真No.5、No.7及び被疑者併列写真集と対照し、かつ前記八木及び沖田の検面調書の記載及び証人館野利治の証言を併せ考えると、右岩田写真三―29、30の状況は、右(Ⅴ)の大型放水車の放水が止まつて、小型放水車の放水のみとなつたころ、八木、沖田、館野の三名が前記四階屋上東南角で、その小型放水車目がけてフアンタの壜を投げ付けているものであることが認められ、右状況の時間帯は、小型放水車のみが放水しかつ同車両の後の人物の状況からほぼ同一場面と認められる斎藤写真No.10(同車両には車両番号の最後の9の字がみえ、かつその型態及び場所的状況から前記小型放水車と認められる)の撮影時刻からみて、午前五時三七分前後と認められ、八木撮影の前記B―4の撮影時刻は、小型車の先端が見えるが、大型車のみの放水場面であることから前記(Ⅲ)の時間帯に相当し、前記午前五時三三分から同三七分の間と認められる。そこで、更に進んで、八木撮影の小川写真B―5についてみると、前記B―4の写真と対照して明らかなように、大型放水車は姿を消していることが認められ、沖田撮影のD―18と全く同一場面であつて、放水中東光電気と二号館の間の路上の後方に居た機動隊員が、前面に防石用の網を張つて隊列を整えた状況に着目して撮影されたものであることが明らかである。ところで、八木や沖田はそれまで数分間二台の放水車の放水状況を撮影したり、小型放水車をめがけて投壜をしていたのであるから、当然放水車の動向に大きな関心を示していたはずであるのに、両名とも放水車の状況を撮影しておらず、前述のとおりその後方にいる機動隊員の動静に関心が移つていることからすれば、右B―5、D―18の撮影時には放水車両はいずれもその場から姿を消したものと推認される。

そうだとすれば、右B―5、D―18の写真は、岩田写真一―30とほぼ同時間帯であることがうかがわれ、これと同一状況を撮影したと認められる斎藤写真No.11(午前五時四〇分ころ撮影)の撮影時刻からみて、午前五時四〇分前後の状況と認められる(なお、沖田の前記検面調書の供述記載中には、D―11の撮影後投壜したとする部分があるが、同人の投壜場面である岩田写真三―29、30は、同三―28と比較対照すると明らかなように、大型放水車がその場面から姿を消したあとであるのに対し、D―11よりあとのD―17にも大型放水車が映つているのであるから沖田らの投壜が一回であるとすれば、それは、D―17の撮影後、D―18の撮影前と思われる)。

以上の事実からすれば、沖田は当日午前五時二九分ころから、八木は遅くとも午前五時三三分ころからいずれも同午前五時四〇分ころまで四階屋上東南角付近で、放水車の放水状況などを撮影したり、放水車を目がけて投壜をしたりしていたことが明らかである。そして、八木、沖田両名の前記検面調書の「そのあと五階エレベーターホールに赴いた」旨の供述記載に徴し、両名は同日午前五時四〇分ころ、相前後して本館五階エレベーターホールに赴いたものと認められる。

5 最後に、八木が撮影した小川写真B―7、B―8についてみると、同写真は、本館東南角付近の機動隊員の状況などを撮影したものであることが明らかであるが、同写真と岩田写真一―32ないし34を比較対照すると、右のうち同一―32、33は写真の人物が小さいうえに、他の機動隊員の様子が不明なためそれだけでは同一の場面であるかどうか判然としないが、その直後の同一―34及び右B―8では放水車が本館東南角の十字路付近に姿を現わしていること、右B―7と右一―33の写真中には白シヤツに黒つぽいズボンの男が右手に何かを持つている状況がうかがわれること(B―7の右端前方、一―33の左端の男―但し拡大写真にはない)、その他前後の状況から、右五枚の写真はほぼ同一の場面と認められ、その写真の時間的順序は岩田写真一―32→右B―7→岩田写真一―33→同写真一―34又は右B―8の順になるものと認められる。そして、右岩田写真一―33及びその拡大写真は、機動隊員の先頭の者が棒状のものを、最後尾の者がハンマーを持つて進行している状況及び前記二号館東側出入口に立つている二人の男の様子が斎藤写真No.12(午前五時四六分ころ撮影)と酷似していて、同写真の直前の場面と認められるから、右岩田写真一―33は午前五時四五、六分ころ撮影されたものと認められる。そうすると、右B―7の状況は右岩田写真一―33の直前のそれであると認められるから、八木は同日午前五時四五、六分の直前には前記エレベーターホールから引返して、本館四階屋上東南角付近にいたものと認めざるを得ない。

6 なお、若干付言しておくと、八木撮影の小川写真B―9ないしB―12の写真も、本館東南角付近の状況であることが明らかであるが、そのうちB―10、B―11は、交差点付近に二台の車両が駐車している状況、二台の車両の間に身を隠して消火栓による放水をしている者の状況等から斎藤写真No.14(午前五時五四分撮影)とほぼ同じ場面と認められるので、八木が午前五時五四分過ぎまで同所で放水状況を撮影していたことが認められる。また、証人八木の証言、前記西尾写真No.15(午前六時ころ撮影)及び二階堂写真No.5、No.7(午前六時三分ころ撮影)によると、これらの写真は、八木、沖田の両名が四階屋上東北角で、下の機動隊員に対し、投石をしている状況と認められ、その時間は午前六時から同六時三分ころと認められる。そうすると、八木が同所で投石する直前に、四階屋上金網の東南角付近で、同機動隊員に投石したという時間は前記五時五四分過ぎから同六時までの同六時に近い時間帯であつたと認められる。

7 以上の次第で、八木は当日午前五時ころから執行官の仮処分決定の告知、債務者に対する任意履行の呼びかけ、援助の機動隊の動静を目撃したり、写真を撮影したりして、同五時二五分前後に四階屋上金網の東北角付近で人夫風の男に投石をし、同五時二八分ころ、機動隊員が本件路地に入り始めるのをみて、同屋上金網の西北角付近に至り、そこでその状況を撮影し、同五時三三分ころには同所から引返して同屋上東南角に至り、放水車による放水状況を目撃したり、撮影したりし、更にそこで同五時三七分ころ小型放水車に対してフアンタ壜を投げ付け、放水車が姿を消したのちの機動隊員の状況などを撮影したのち、同五時四〇分ころから四五分過ぎころまで五階エレベーターホールで投石をしたり、ブロツク塊などを運んだりし(当日八木が同エレベーターホールに行つたのは一回だけである。)、そして、同五時四六分ころから同五四、五分ころまで四階屋上東南角で機動隊の動静や消火栓による放水状況などを撮影し、同午前六時直前ころ、四階屋上金網東南角付近で、同館東北角付近に見える機動隊員めがけて投石し、更に場所を右四階屋上東北角に移して、同六時ころから数分間同機動隊員めがけて投石をしたものと認められる。従つて、八木が五階エレベーターホールに行き、石を運んだり、投石したりしたのは、午前五時四〇分ころから同四五分ころまでの約五分間と認められる。

(四)  高橋克美の行動について

検察官は、八木調書中、五階エレベーターホールにおける高橋の言動に関する供述記載は極めて具体的、詳細であつて信憑性が高いのに対し、証人高橋証言は信用できないし、右証言を裏付けるという写真も不明瞭で、同人であるかどうか判然としないばかりか、写真のない時間帯に同人が同ホールに行つた可能性もあり、右証言を補強することにはならないと主張するのに対し、弁護人は、高橋が二階、三階で投石などを繰返していて、五階エレベーターホールに行つていないことは右証言と写真によつて明白であるから、高橋が同ホールで沖田に対し、石を運べと指図したり、投石をしたりしたなどと恰も高橋の行動を具に目撃したかのように記載してある八木調書の内容は出鱈目であつて、同調書の信憑性は極めて低いと反論するのでこの点について考察を進める。

1 証人高橋克美は、当公判廷において概ね次のとおり供述している。即ち、「自分は当時日本大学経済学部二年生であつたが、三三番教室の集会で、機動隊が導入されるからこれを阻止するとの話を聞いたのち、自己の所属する二闘委の持場であつた二階の配置についたところ、同階西北角付近から執行官及びその補助者と思われる二、三人の男が本館に入ろうとしているのを認め、同階ベランダからこれにコーラー壜などを投げつけたり、言葉の応酬をしたりしているうち、多数の機動隊が白山通りから本件路地に進入するのを認め、伊藤、戸村、越智、小滝和貴などと共に、同ベランダからコーラー壜、石塊、スチール製椅子を投げ付けたりしたが、これに対し、機動隊は放水車による放水で対抗してきたため、ずぶ濡れになり、付近の窓ガラスが炸裂した。このような攻防が繰返されているうち、二階は危いから三階に移れとの指示があり、既に館内に機動隊が入つているのが目に入つたため三階に上り、その西北角で投石をしたり、消火栓による放水をしたりしたが、ここでも抗しきれず、一気に屋上に駆上り、屋上で逮捕された。五階エレベーターホールには全然行つておらず、況してや、そこで石を運べと命じたようなことはない。以上の行動は中村、須川、今の各写真によつて十分裏付けられる。当時自分は紺ズボン、風防付きの水色ヤツケの服装で、ライトブルーで正面に「日大全共斗」、横に「S」と記載されたヘルメツトを着用していた。また、当所はタオルで覆面していたが、後にこれを取つた。自分が五階に居たと供述している八木とは全く面識がない。」と証言し、証人小滝和貴も逮捕された場所などを除き、ほぼ右証言に符合する供述をしている。

2 そこで、被疑者併列写真集と対照すると、高橋の当時の服装等が、ほぼ右証言のとおりであることが認められるので、同人のこれらの服装、容貌、同人が比較的小柄な体格であること等を重点に、前記中村、須川、今の各写真と対照してみると、右写真の中には明瞭でないものがあるが、須川写真NO.7、NO.8(午前五時二九分ころ撮影されたもの。以下括孤内の時間は、写真撮影時刻を示す。)の男及び今写真NO.21(午前五時三九分ころ)の左端の男が、右高橋の特徴と極めて酷似しており、高橋と見てほぼ間違いないものと認められるので、これを手懸りに検討するのに、中村写真NO.2ないしNO.5(午前五時二五分から同二六分ころ)のいずれも右の男、同NO.6ないしNO.8(同五時二六分から同二七分)の男、同NO.9(同五時二八分ころ)の左の男、同NO.10からNO.12(同五時二八分ころ)、今写真NO.1、NO.3(同五時二五分ころ)の男、同NO.2(同五時二五分ころ)の左の男、同NO.10、NO.11(同五時三一分ころ)、同NO.21(同五時三九分ころ)の各左端の男はいずれも同一人物と認められ、前記高橋の特徴からみて、高橋であると認められる(なお、写真NO.10、NO.11は、それ自体必ずしも鮮明でないけれども、ヘルメツトの文字、着用している風防付ヤツケ、体つき、投下している格好などが酷似していることやその位置関係から同一人物であることは疑いを容れないし、NO.23((同五時四一分ころ))も、右の諸点の外、NO.21の小滝とみられる男やNO.12、NO.15の男のヘルメツトには「全共斗」の文字があるだけであるのと異なり、NO.23の男のヘルメツトには「全共斗」の上に「日大」の文字を推認させる痕跡があり、後述するように高橋はそのあとの午前五時四三分ころにも同所に居たことからすると、右写真中の人物は高橋である可能性が強いというべきである。)。また、須川写真NO.3、NO.4(同五時二五分ころ)のベランダの男、同NO.5(同五時二六分ころ)の左の男、同NO.6ないしNO.8(同五時二九分ころ)の男、同NO.21(同五時四三分ころ)の左の男も同一人物であつて、高橋であると認められる(なお、同NO.21の写真自体は必ずしも鮮明でなく、顔も下向きかげんで判然としないが、これを今写真NO.21と対照すると、三人の人物の様子、着衣、仕ぐさ、ヘルメツトの文字が対応していること、左端の人物は覆面をしておらず、首付近から白布がのぞいている状態も同じであること、特に右端の男の前から右斜めに出ている棒状のものは全く同じであることからすれば、左端の人物も同一人物であることは疑いを容れない。)。そうだとすれば、高橋が少なくとも当日午前五時二五分ころから同五時三一分ごろまで及び同五時三九分ころ、同五時四三分ころ本館二階西北角ベランダに顔を出して、投壜などを繰返していたことは否定することができない(なお、同五時四一分ころ、二階西北角ベランダに顔を出している人物が高橋である可能性が高いことは既に指摘したとおりである。)。

3 右認定事実は概ね前記高橋証言と符合し、これを裏付けるものと認められる。そして、機動隊員が午前五時三五分前後に入館しはじめ、同四三分ころには第五機動隊員約一三〇名の三分の二以上が入館し、同四五分ころには極く一部を除いて入館を果たしていたことは既に認定したとおりであり、入館直後から一階所在の、あるいは二階に通じる階段のバリケードの取毀しにかかつていたことは証拠上明らかであるから、これらの事実と前記高橋証言とを併せ考えると、同人は午前五時四四分前後ころ同館三階に向かつたものと認められる。もつとも、高橋が午前五時二五分ころから同五時三一分ころまでと同五時三九分ころから同五時四三分過ぎまで前記二階ベランダに居たことは動かしがたいと思われるが、その間の同五時三一分ころから同五時三九分ころまでの約八分間はその所在が明らかでなく、その間何度か激しい放水があつたとはいえ、他の人物は顔を出しているのに高橋が認められないこと、後記のとおり被告人佐村や同米丸が時間の点はともかく、他の階から五階エレベーターホールに行つていることからすれば、高橋が同ホールに行つた可能性を全く否定することはできないけれども、証人根本安ら関係人の供述から明らかなように、同五時三九分前ころは、機動隊員が本件路地内に密集停滞し、五階エレベーターホールからの投石が最も激しかつた時であり、しかも、後記のとおり、その直後、八木、沖田、被告人平野、同坂井らが、同ホールに居たものから応援を求められていること等に徴すれば、高橋が、このような差し迫つた状況をあとに同ホールを離れて前記二階ベランダに戻つたことになり、極めて不合理であること、もともと高橋は二年生で、その持場は二階ベランダであり、前記のとおり同五時三九分以降も戸部や小滝と行動を共にしており、福原のようなリーダー格でもない高橋が上級生である多数の三年生などを差し措いて、独り同ホールに赴いたとは考えにくく、その可能性は薄いものといわざるを得ない。

(五)  結び

八木の検面調書には、高橋が八木や沖田に石運びを命じたり、投石したりした状況がかなり具体的かつ詳細に記載されていることは前述したとおりであり、更に八木の43・12・20付検面調書でも右の外、同人の投石回数は五、六回に及ぶとか、高橋はだぶついたジヤンパーを着ていたが、それが濡れていたとか恰も実際に体験したような供述記載になつているけれども、右認定事実から明らかなように、高橋克美は投石現場である五階北側エレベーターホールには行つていない可能性が高いし、仮に行つているとしても、同日午前五時三一分ころから同五時三八分前後であり、八木が右ホールに行つたのは同五時四〇分ころであるから八木が同ホールで高橋と会つているはずがなく、右の詳細な供述はいずれも事実に反するものと評せざるを得ない(なお、高橋が、同五時三九分から同四三分過ぎまで二階に居たことは動かしがたいし、その後である同四四分前後には既に詳細に認定したように、機動隊員は殆ど入館したか、白山通りに退却し、遅くとも、同四五分ころには、本件路地内には全く居なくなつてしまつたのであるから、そのころ高橋が投石のため同ホールに行くことは全く考えられないことである。)のみならず、既に指摘したように、八木調書は自分自身の経験した事実である投石の経過に関する供述すら変転極まりなく、同人の43・12・8付検面調書中の右の点に関する記載はすべて「思います」とか「はつきりしないが」とか断定的表現を避けており、現場の状況に関する記憶にあいまいな点や混乱があることを到底否定することができない。以上の次第で、八木調書ではあやふやに述べたところが断定的記載になつているとの前記八木証言は一概に排斥しがたく、八木調書の信憑性には大きな疑問があると言わざるを得ない。

三  各被告人の罪責の有無について

(一)  被告人平野、同坂井について

検察官は、同被告人らは捜査及び公判を通じ犯行の殆ど全部又は一部を自認しているところであり、共犯者八木、同吉田、同沖田、同牧野及び被告人佐村の各検面調書(ただし、牧野調書及び佐村調書は被告人平野についてのみ)もこれを裏付けており、被告人平野の「自分は(Ⅰ)かなり長い間四階屋上西北角付近で機動隊員に対する投石等の状況を、更に(Ⅱ)同屋上東南角付近で放水状況を見ていたため、五階エレベーターホールに赴いたときには、路地にいた機動隊員は本件路地から白山通りに向かつてかなり退却している状況にあつた」との、被告人坂井の「同ホールには写真撮影のため立寄つた」との各弁解は合理的なものとは到底いえないと主張するのに対し、弁護人は、被告人平野が五階エレベーターホールに赴いたのは機動隊員が本件路地から退却しかかつた同日午前五時四二、三分ころであり、被告人坂井は石運びの中継を一回しただけであつて犯行に関与しておらず、八木調書は全く信憑性がなく、他の各検面調書も八木調書をもとに誘導によつて作成されたもので、同様に信憑性がないと反論するので検討する。

1 同被告人らは公判廷において次のとおり供述している。即ち、被告人平野は、「自分は当時日本大学経済学部三年生であつて、文理学部写真研究会に所属し、全共闘の写真班という名目でその闘争活動の撮影に携わつていたが、本館四階屋上東南角付近で機動隊に対する投石状況などを見ていた時、被告人佐村から『裏が大変だ』といわれ、同被告人及び八木と共に同屋上西北角に至り、一階窓から入館しようとしている執行補助者を認め、三人でコーラ壜を投げつけたところ、執行補助者らは逃げ散つた。折柄、同館東北角付近に接近している機動隊があり、被告人佐村が同機動隊に対し『こつちに来ないでくれ』などと叫び、三人で放水するため、ホースを西側の男子便所付近の消火栓につないだが、ノズルが無いため放水できず、間もなく、被告人坂井を呼び、白山通りから本件路地に進入して一階の窓から入館しようとしている機動隊員めがけ、八木から渡されたレンガ塊を投下したところ、被告人坂井から制止されたので、その場で三ないし六階の窓からレンガ塊、スチール製ごみ箱、長椅子などが投下される状況を見たのち、更に周辺の状況を見るため被告人坂井と共にそこを離れ、同屋上東南角で放水していた二台の放水車のうち一台が姿を消した状況などを見た。そのあと、二人の学生から『こつちが人手が足りないから来い』といわれ、五階エレベーターホールに行くと、被告人米丸が『今ここが大変なんだ』といい、八木や佐々木らがおり、誰れかが『投げろ』といつたので、自分も本件路地を退却しかかつた機動隊員に対し、五回位投石をしたり、レンガ塊を一回運んだりした。その間沖田や吉田を見かけたが、被告人塙とは同ホールで会つておらず、被告人佐村とは消火栓の準備をした時に会つたのが最後であり、同坂井にもその後は会つていないと思う。」と述べ、また、被告人坂井は、「自分は当時、法学部三年で、被告人平野同様文理学部写真研究会に所属し、全共闘の写真班という名目で、全共闘の闘争状況を写真撮影していたが、当日仮処分の執行開始後四階屋上東南角付近でその状況を撮影したりしていたところ、被告人平野から呼ばれて同屋上西北角に行き、機動隊員の本件路地への進入状況を見たり、撮影したりしていた際、被告人平野がその場で右機動隊員に対し、投石したのを認めたので『よせ、よせ』といつて制止した。それから、そこで、五階エレベーターホールの窓等からの激しい投石を見たり、その場を離れて周辺の状況を撮影したりしていたが、前記四階東南角にいた時、全共闘の学生から再三『お前ら石を運んで来い』『何をぐずぐずしているんだ。運んでこい』といわれたので、花壇付近にあつた石塊を同ホール手前の通風塔付近まで一回運び、その付近に取りにきた学生に手渡した。その石運びの現場で被告人平野とすれ違つたことがある。白山通りからの激しい放水と本館北西角付近の窓からの学生の放水とが対抗して行われたことがあり(同被告人のいわゆる放水合戦)、これを見るため五階エレベーターホールに立寄つた際、そこで八木を認めたが、被告人米丸が居たかどうかはつきりしない。なお、四階屋上金網西側の通路で同被告人が長椅子を運んでいるのを見たことがある。同屋上東南角付近で輸送車を見たことがある。」と述べている。

2 これに対し、平野の検面調書の記載は、43・12・4、5付に「エレベーターホールで白ヘルメツトの学生から『おい、お前も投げろよ』といわれた。その男は被疑者併列写真の神田一三二番の男(被告人塙)のように思うが、単なる憶測で、明確な記憶は残つていない。」との記載が、43・12・9付に「エレベーターホールには被告人佐村や同塙が居たような気がする。被告人塙は『おいお前も投げろよ』といつた男のような気がする。投石したレンガ塊の大きさは、大きいものでレンガ三個分位のものであつた。」との記載が、更に43・12・12付に「エレベーターホールで私が投石している時、しばらくして私の左横に佐村が来たことは憶えているし、塙が、私に投げろといつた時、私の左斜めやや後方にいたようだつた。」との記載がある外は、前記平野の公判廷の供述と殆ど同じであり、また、被告人坂井の検面調書の記載は、43・12・8付に「『早く石を持つてこい』といわれて石を運んだのは、四階屋上金網とエレベーターホールの東方にある女子便所との間の通路途中から女子便所角までの約三メートルであり、『石を運べ』といつた三人位の学生の中に米丸がいたように思う。」との記載が、43・12・9付に「花壇からエレベーターホールまで二、三回往復してレンガ塊などを運んだように思うが断言できない。その際、窓から外をのぞくと白山通り側から強い放水があつた。八木の投石は見ていないが、身をのり出してのぞき込んでいたので投石のあとと思う。米丸もエレベーターホールに居たような感じがするがはつきりしない。」との記載がある外は、前記坂井の公判廷の供述と同じであるが、供述内容にかなり変化がみられる。

3 そこで、被告人平野が同ホールに行つた時刻を検討する。同被告人は被告人坂井と共にかなり長い間四階屋上西北角に居たと主張し、その裏付けとして、第二一回公判で証人川田茂に示した写真綴(以下、川田写真という)を挙げるのでこの点について考えるのに、川田写真No.1は本館北西角二階ベランダ付近に向けて放水車から放水がなされ、既に機動隊員が本件路地に入つている状況であり、同写真No.3には、四階屋上西北角に二人の人物が上半身を乗り出すようにし、うち一名が頭にヘルメットらしいものを着けている様子が写つており、同写真No.5ないしNo.8にも同場所に人物らしい痕跡が認められ、同写真No.9には、同場所に二人の人物が居て、うち一名がヘルメットをつけ、路地に密集した機動隊員を見ている状況と五階エレベーターホールではヘルメット姿の人物が石塊様のものを投下しようとしている状況が写つており、同写真No.10では、本件路地から機動隊員の姿が見えなくなつていることが認められる。

ところで、右川田写真No.6は、須川写真No.15(同日午前五時三四分撮影)と比較対照すると、一見して同じ状況の場面であることが明らかであり(若干補足すると、最も特徴的なことはいずれも長机が落下する直後の状況をとらえており、その外、頭上のネット、その下及び後部の機動隊員の状況、西門に三人の機動隊員がいる((川田写真No.3では二人であり、同No.9では数人に増加している))ことなどが酷似していることから同一場面と認められる)、その撮影時刻は午前五時三四分ころと認められる。そして、証人川田茂の証言によると、川田写真(一〇枚)は連続したものではなく、フイルム三本のうちから一〇枚が選ばれていること、撮影時間は午前五時三〇分ころから撮りはじめ、No.3ないしNo.8はフイルムが連続しており、No.8を撮つたのちフイルムを入れかえてNo.9を撮つた(No.3ないしNo.9は同一場所である)こと、No.3以降の写真は約三〇秒位の間隔で撮られたことが認められるから、川田写真No.9の撮影時刻は午前五時三五分以降であると推定される。

また、共犯者の八木及び沖田の各検面調書、被告人佐村、同平野、同坂井の公判廷における各供述、及びその各検面調書によると、第五機動隊員が本件路地に進入した前後に四階屋上西北角に行つた者は、被告人佐村、同平野、同坂井と八木、沖田の五人であり、八木、沖田及び被告人佐村は遅くとも午前五時三三分ころにはその場所には居なかつたことが明らかであるから、同場所に写つている前記川田写真の人物は特段の事情がない限り被告人平野及び被告人坂井であると推認されるところ、証拠上、同被告人ら以外に、右川田写真No.3ないしNo.9撮影の時間帯に同所に居たと認むべき者はなく、同被告人らが本件路地に機動隊員が進入している状況を目撃していた旨の供述は捜査、公判を通じて一貫しているうえ、被告人平野が投石して被告人坂井に制止されたことなど当時の状況を具体的に供述しており、これを否定し去ることは到底できないから、右川田写真の四階屋上の人物は被告人平野、同坂井と認めざるを得ず、そうだとすれば、同被告人らは少なくとも同五時三五分ころまでは同所に居たものと認められる。ところで、その後被告人平野が、どの階段でエレベーターホールに赴いたかについては確たる証拠がないが、八木の43・12・3(一五枚綴)検面調書には「平野も沖田も私のあとから来ました」との記載があり、この点は、被告人平野の43・12・9付検面調書の「エレベーターホールに向かう途中、花壇に八木のカメラが置かれていたのを見た。同ホールに行くと既に八木が居た。」旨の記載や、同被告人の前記公判廷の供述とも符合するのであつて、被告人平野の「他の場所を見て廻るため四階屋上西北角を離れ、四階東南角に戻つて放水状況などを見たのち、全共闘の学生から声をかけられて五階エレベーターホールに行つた。」旨の前記供述はこれを一概に排斥できず、他にこれを否定するに足る証拠もないから同被告人は、八木と相前後して同ホールに向かつたものと認めざるを得ず、前記のとおり、八木が五階エレベーターホールに赴いたのは同日午前五時四〇分ころと認められるから、被告人平野が右エレベーターホールへ向かつた時刻は午前五時四〇分過と認められる。

4 次に、被告人坂井の行動経過についてみるのに、前記認定の事実からすれば、同被告人は、被告人平野に呼ばれて四階屋上西北角に赴き、少なくとも同午前五時三五分ころまでは、同所に留まつて本件路地に進入した機動隊員に対する五階エレベーターホール窓からの投石状況などを目撃していたことが認められるところ、同被告人についても、どの段階で石運びをし、エレベーターホールに赴いたかについては的確な証拠がないが、同被告人の「その後、四階屋上東南角付近に居た時、再三にわたり二、三の全共闘の学生から『何をぐずぐずしているんだ。運んでこい』といわれて石運びをした。」旨の供述は、捜査、公判を通じて一貫しているし、同被告人が四階屋上西北角で被告人平野の投石を制止していることや被告人坂井の写真班としての立場からすれば、同被告人が、他から要求もされないのに積極的に投石用の石を運んだり、投石をしたりしたとは考え難いのみならず、その石運びの支援を求められた状況は八木、沖田、吉田及び被告人平野の各検面調書によつて認められる同人らが全共闘の学生に応援を求められた同日午前五時四〇分ころの状況に酷似しており、被告人坂井が前記石運びの際、被告人平野とすれ違つたと述べているところからすれば、被告人坂井の石運びも右の時点ころと一応推認される。

ところで、被告人坂井の前記供述によると、同被告人の石運びは、右エレベーターホールに至る途中で、他の学生に引継いだことが一回あるだけであり、それとは別の機会に激しい放水状況をみるため同ホールに立寄つたことがあるに過ぎないというのであるが、その前後に同ホールで激しい投石がなされ、喧噪の状態にあつたことは証拠上明らかであるから、石運びをさせられたとすれば、そちらに関心が集中するのが自然の成行であつて、その機会に同被告人が同ホールに赴いたとみるのが合理的である。しかして、被告人坂井と面識があり、当初行動を共にしていた沖田の検面調書には「自分が最初に石を運んだ時に被告人坂井も同ホールに居た。被告人坂井が投石をした直後であるような格好をしているのを二回位見ている。自分が三、四回石運びをして同ホールに来たとき、日本バプテスト教会の白山寄りの屋上にカメラのようなものを持つた一人の男がいるのを見かけ、『あそこで写真をとつているぞ』といつたところ、白山寄りの窓際にいた被告人坂井が記録の仲間だといつた。この時坂井はカメラを持つていなかつた。」と詳細かつ具体的な記載があり、右供述記載は前記推定事実と符合し、これを裏付けるものというべきでる(なお、吉田の検面調書にも被告人坂井が同ホールへ石塊を運び、その機会に同ホールに居たとの記載がある。)。のみならず、被告人坂井自信も43・12・9付検面調書で、「全共闘の学生から再三要求されて、二、三回五階エレベーターホールに石塊を運んだ。その際、同ホールの窓から白山通りをのぞくと本館西北角に強い放水があつた。右窓には三名位の学生がおり、八木が投石する現場は見ていないが、身をのり出してのぞき込んでいたのは見た。」と述べ、しかも同被告人が右エレベーターホールに行つたのは一度だけであるというのであり、また、その時間帯に本館西北角に放水がなされたことは、根本安の検面調書、須川写真No.26、No.27、No.28、今写真No.24によつて明らかであるから、同被告人のいわゆる放水合戦の目撃は右石運びの機会と同一であるというの外はなく、同被告人は同日午前五時四〇分ころから同五時四五分ころまで右エレベーターホールに居たことになり、同被告人の前記公判廷における供述中右認定に反する部分は措信できない。

5 以上の次第で、右認定した客観的事実に被告人平野、同坂井について検討した各供述を併せ考えると同被告人らが、同日午前五時四〇分過ぎころから五階エレベーターホールに居た者らと意思を相通じて投石した事実は否定することができない。

(二)  被告人米丸について

検察官は、被告人米丸が五階エレベーターホールで投石したことは八木、沖田及び被告人平野の各検面調書によつて明らかであり、被告人米丸が犯行を否認し、本件当時三階に居たとして縷々事情を述べ、その裏付として金沢証言を挙げるけれども、いずれも信用できないと主張するのに対し、弁護人は、被告人米丸は当日、食事の世話と救護を担当し、三階に仮救護所を設置してその整備を行い、その間に同東北角付近が手薄なことに気付いて二回にわたつて、同西北角付近にいた金沢清人らに右東北角付近に行つてほしいと頼んだりしたのち、同西北角で激しい放水(これは須川写真No.28の放水)を浴び、体をふいて一旦は六階まで上がつたが、それから四階屋上金網に行き、そこで八木や沖田と会い、更に五階エレベーターホールに行つたが、その時は、同ホールに誰れも居なかつたのであるから同ホールで八木らと投石したような事実は全くないと主張し、検察官の主張に対し、(イ)八木調書は極めて信憑性に乏しく、被告人米丸が五階エレベーターホールに居た旨記載した他の各検面調書もこれをもとに作成されたものであり、八木、沖田は、金網のところで被告人米丸と会つたのでこれを右ホールで会つたと混同したか、捜査官から誘導された可能性が大きく、また、被告人平野は、投石中と投石後の二回同ホールに行つているので、投石後に同ホールに行つて被告人米丸に会つたのを、投石中に同ホールで同被告人に会つたと混同したものと思われるし、(ロ)金沢証言は、同人が日本大学郡山の学生であつて、日常的に接触していたわけではないから、同被告人と面識がありながら、これを認識し得なかつたからといつて、何ら証明力を減殺するものではないし、(ハ)被告人米丸の浴びた放水がその状況から須川写真No.28の放水であることは間違いないと反論し、被告人米丸は公判廷において弁護人の主張と同旨の詳細な供述をするので検討するのに、既に認定したところから明らかなように、同被告人と面識のあつた被告人平野は捜査、公判を通じ、同ホールに行くと、そこに被告人米丸、八木、沖田らが居たと明確に述べ、面識のあつた沖田も捜査官に対し、被告人米丸がそこで投石していた旨具体的かつ詳細な供述をしているのであるから、被告人平野や沖田が五階エレベーターホールに行つて投石した際、同所に被告人米丸が居て投石していたことは否定することができない。もつとも、被告人平野が、これより後の時刻に同ホールで被告人米丸と会つたことは弁護人指摘のとおりであるが、被告人平野は、捜査、公判を通じ、被告人米丸と会つた二回の状況を截然と区別して明白に供述しており、両者を誤認混同して述べたものとは認められないし、また、弁護人指摘のとおり、沖田が被告人米丸とその後四階屋上北東角付近で会つていることも証拠上明らかであるが、両名は以前から面識があり、この時初めて会つたわけではないし、その会つたという状況を異にするばかりか、その場所も異なるのであるから、両者を誤認混同しているというようなことは到底考えられず、被告人米丸が五階エレベーターホールで投石を行なつたことは疑いを容れないところである。しかして、同被告人が、いつ、どの段階から同ホールに居たかについて、これを明確にする証拠は全くなく、被告人平野、沖田、八木らが同ホールに行つた際、既にそこに居たことのみを明らかになし得るに過ぎない。

なお、付言すると、弁護人は、被告人米丸が本件発生当時三階に居たと反論していることは前述のとおりであるが、同被告人の供述内容を子細に検討してみると、その供述は、東北角付近の出来事が中心になつており、白山通りから本件路地への大がかりな進入やそれに対する激しい投石行為に気付かないはずがないのにこれに全く触れておらず、消火栓による放水の件になつて初めて西北角付近の状況がでてくるのは右の事柄を意図的に避けているのではないかとの疑いがあり、また、金沢証人は、二回にわたつて誰かに裏の方に来てくれとの依頼を受け、一回はそれに応じたと証言するが、その依頼した人物の姿、格好などの特徴を認識しているのに、それが被告人米丸かどうか記憶にないというのであつて、同被告人とは面識があり、かつ同被告人が当日覆面をしていなかつたことを考えると、それが同被告人ではなかつた蓋然性が高く、同被告人の前記弁解は信用することができない。

(三)  被告人佐村について

検察官は、同被告人は当公判廷で犯行を否認しているけれども、捜査段階では、本件につき深く反省の態度を表明したうえ、これを自認しており、その検面調書の記載も具体的かつ詳細であり、共犯者八木及び被告人平野の各検面調書もこれを裏付けており、右自供は十分信用できると主張するのに対し、弁護人は、被告人佐村の有罪を裏付ける証拠としては右三名の検面調書だけであるところ、八木調書は全く信憑性がなく、被告人佐村及び同平野の各検面調書も右八木調書に基づき誘導されたり、追及されたりして作成されたものであり、同様に信憑性がないと反論する。

ところで、被告人佐村が四階屋上西北角で、八木らと共に、一階エレベーターホール窓から入館しようとしている執行補助者をめがけて投壜などをしたこと、その際同被告人が本館東北角に接近してきた機動隊を認め、同屋上東北角付近で、これに対し「来るな帰れ」などといつたこと、五階エレベーターホールから金属製灰皿兼ごみ箱及び長椅子を本件路地内にいる機動隊員めがけて投下したことは同被告人が公判廷で認めるところであつて、当事者間に争いがなく、証拠上もこれを認めることができる。そこで、問題は同被告人の右エレベーターホールにおける投下行為が執行補助者に対する投壜行為に引続き行われたのか、それとも同被告人の言うように一旦三階に行つた後、引返してからなされたのかという点と、同被告人の右エレベーターホールでの行為は単に金属製のごみ箱と長椅子を投下したに過ぎないのか、レンガ、ブロツク塊をも投下したのかという点に関する。

そこで、右の点について考察を進めることにする。

1 被告人佐村は、公判廷では、「自分は、日本大学経済学部三年生で、全共闘に所属し、三闘委の班長であつたが、当日、自己の持場である三階西北角で、執行補助者が本件路地に進入しようとしているのを認め、直ちに四階屋上西北角付近に赴き、八木、沖田と共にこれをめがけて投壜などをした。その際、同館東北角に接近してきた機動隊を認め、同屋上東北角付近に至り、同機動隊に『来るな、帰れ』などと言い、更にこれに放水すべく、五階男子便所付近の消火栓から引いたホースを右西北角付近に居た被告人平野に渡したのち、持場のことが気になつて一旦三階に戻り、三階でも壜を投げたと思うが、それは記憶にない。それから再び五階エレベーターホールに赴き、そこで、本件路地から白山通りに退却しようとしている機動隊員を認め、これに金属製灰皿兼ごみ箱及び長椅子各一個を投下したが、レンガ塊などは投下していない。」と弁解している。ところで、43・12・6付検面調書には、「四階屋上西北角付近に行つたところ、執行補助者三名のうち一名は一階エレベーターホールから入館したが、他の二名はその付近に居たので、これにコーラー壜を投げつけたところ、その二名は逃げた。」との記載に続き、項を改め、「五階エレベーターホールの西側の窓から金属製灰皿兼ごみ箱及び長椅子を投げたので申上げる。」との書出しで「自分は機動隊員が頭上に楯をかざしながら本件路地に入つてきたのを上から見て、一階エレベーターホールの窓から進入してくると思い、その機動隊員めがけて、前記の品物各一個を投下した。あるいはもつと沢山投げているかもわからない。」旨の記載があるだけで、同被告人のどういう行動経過の中で右投下行為がなされたか、路地に進入した機動隊員を目撃した場所はどこか、外の投下物の有無とその内容はどうか等については具体的記載がなく、43・12・9付調書には、「執行補助者に投壜をしたのち、本館東北角付近に接近してくる機動隊員を認め、四階屋上東北角から『機動隊帰れ、来るとこれをぶつけるぞ』と怒鳴り、五階男子便所付近まで走つて行き、そこにある消化栓にホースをつなぎ、四階屋上西北角に居た被告人平野に渡した。」との記載の直後に、「ホースを消火栓につないだ理由は前記機動隊に水をかけるためだつたか、あるいはそのころ白山通りの方から路地に入つてきた機動隊に水をかけるためだつたか、そのいずれかであつたかと思います。この点まだ私自身どちらの目的でホースをつないだのだつたかはつきりしないのです。」と記載され、こつ然として白山通りから本件路地内に進入してきた機動隊員のことが現われ、更に「右ホースをつないだあと直ちに五階エレベーターホールから投石したのか、三階に一旦下り、五階に引返して同ホールから投石したのか判然としないが、いずれにしても間もなく同ホール西側の窓からレンガやブロツク塊を路地に入つてきた機動隊員めがけて投下した。同ホールには高橋克美、被告人沢田、鈴山、被告人平野、八木幸治などが居た。同人らが投石したかどうかはつきりしないが、居たことは間違いない。自分はレンガ二個分よりやや大きいものなど五、六個のレンガやブロツク塊の外、金属製灰皿兼ごみ箱二、三個及び長椅子一個を投下した。右ごみ箱や長椅子を投下していた際、本件路地の白山通り入口付近で機動隊の指揮者と思われる男が『さがるからやめろ、やめろ』などと叫び、間もなく機動隊員が白山通りに退却した。そのあと三階の持場に帰つた。」旨の記載がある。

2 右検面調書の記載によると、被告人佐村は四階屋上で下に居る執行補助者に投壜などをした際、本館東北角に接近した機動隊を認め、「帰れ」などといつて、直ちに消火栓のホースを取りに行つたというのであつて、本件路地の白山通り側入口付近の状況には全く触れられていないことからすると(なお、八木調書の信憑性の項で認定したように、右執行補助者が一階エレベーターホールの窓付近に現われたのは当日午前五時二五分前後であるのに対し、機動隊が白山通りから本件路地内に進入を開始したのは同五時二八、九分ころのことである。)、この段階では、同被告人の関心は専ら本館東北角付近に接近してきた機動隊に向けられており、白山通りから本件路地に進入する第五機動隊には、いまだ気付いていなかつたものと認めざるを得ず、従つて、その直後に消火栓にホースをつないだのは、東北角付近に接近した機動隊に対し放水をしようとしたためであると解される(消火栓にホースをつないだのが、東北角から接近した機動隊に対するためであつたか、白山通りから接近してきた機動隊に対するためであつたか、はつきりしないというのは、前後の関係からみて、極めて不自然である)。

そうだとすれば、被告人佐村が、被告人平野に右ホースを渡したのち、自己が班長である三階の持場のことが気になつて一旦三階に戻つたとしても格別不自然ではないし、また、同被告人が五階で放水の準備をしたのち、直ちにそばのエレベーターホールに赴いたのであれば、三階に戻つたかどうかについて触れる必要がないのに、被告人の前記43・12・9付検面調書には、わざわざ一旦三階に戻つたかどうか判然としないと記載されているところからすれば、同被告人が、放水準備をしたのち、直ちに五階エレベーターホールに行つた記憶がなく、捜査官に対しても公判廷と同様の弁解をしていたのではないかとの疑念を払拭できず、同被告人が放水準備をしたのち、一旦三階に戻つた旨の公判廷における弁解は、これを排斥することができない。

3 ところで、前記のとおり、同被告人がその後、五階エレベーターホールの窓から長椅子などを投下したことは、証拠上明らかであるから、同被告人はその後同ホールに引返したことになるが、問題はその時刻である。この点に関し、同被告人は公判廷では、本件路地に居た機動隊員が、白山通りの方に退却しかかつた時であると弁解しているが、同被告人の各検面調書には、いずれも機動隊員がエレベーターホールに向かつて進入している状況であつたと全く対蹠的な記載がある。しかして、公判廷における右弁解によると、同被告人は、三階では持物を廻つたり、放水車などに投石、投壜をしたりしていたというが、特記すべきような印象的な事柄が見られず、また、五階に戻つたのは先に執行補助者が本件路地内に入つたことがあつたのでその後どうなつているか気になつたためであると述べているところからすれば、三階にそれ程長い間いたとも思われないし、検面調書には、前記のとおり、同被告人は本件路地の白山通り入口付近で、機動隊の指揮者と思われる男が投石をやめるよう叫んでいるのを聞いた(証人根本の証言によれば、前認定のとおりその時間は同日午前五時三八分ころから同四〇分ころと推定される。)旨の記載があるほか、その前後にわたる自己の投石などの状況、投石したレンガ塊などの形状、個数などについても具体的かつ詳細な記述があり、これらの点を考え併せると、同被告人のこの点に関する前記公判廷における弁解は到底信用できず、同被告人は遅くとも同日午後五時四〇分ころには同ホールで投石などを行つていたものと認めざるを得ない。

しかし、同被告人がこれより先、いつ、どの段階で、同ホールに行つたかを明らかにする証拠はない。

(四)  被告人澤田について

弁護人は、被告人澤田は当時本館に居て、同五階エレベーターホールには全く行つていないから、本件について現場共謀ということはあり得ないと主張し、同被告人も、「自分は昭和四三年九月二日夜、入館したが、九月四日当日午前五時ころ、持場である三階白山通り側やや北寄りの窓付近に位置し、放水車の放水に対し投石、投壜をしているうち、機動隊が白山通りから本件路地に入り始めたため、三階北西角の部屋で、その機動隊員めがけて投石、投壜をしていた。そこに七、八人の学生が集まつてきたので、先に『三年生は三階を守れ、絶対持場を離れるな』との指示を受けていたし、一箇所に集中すると必ず手薄なところができて、そこから容易に機動隊に入られると考え、そこに来ていた者に対し、『持場に帰れ』と言葉をかけたが、その者らがその持場に帰る様子がなかつたし、上の四階の小窓から長椅子か机と思われる物件が落ちてきて自分の頭をかすめたことがあり、身の危険を感じたため、手薄な場所を求めて三階東北角『自習室』に行き、そこで押田光久、神田充王に会つた。その時の外部の状況は北側に待機している機動隊が時々本館に接近したり、右側電柱付近に居たカメラマンがカメラを向けたりしていた。自分は、一進一退を続けている右機動隊に対し、投壜などを断続的にくり返し、眼鏡をかけ、白い棒と小さい楯を持つた機動隊の指揮者らしい男から『投げるのをやめろ、貴様の顔は覚えた。逮捕するぞ』などと怒鳴られたことがあつたが、これに対しても投壜したり、『機動隊帰れ』などと怒鳴り返したりした。また、右カメラマンに対しても、『こそこそ撮らないで堂々と撮つてみろ』といつて、そのカメラマンめがけて投壜をしたり、時には両手を広げ、自分をあからさまにして罵声を浴びせたりした。その外、右指揮者らしい男が『けが人が出たから投げるのをやめろ』というのを聞いたことがあり、ネツトをかざした機動隊の一団がきて北東角付近の板塀をハンマーで破つているのを見た。それから『機動隊が校舎に入つたから逃げろ』という声がしたので一気に八階までかけ上り、そこで逮捕された。」と述べ、これを裏付ける証拠として証人押田光久、同神田充王の各証言、千葉写真No.5ないしNo.8、二階堂写真No.2、No.3、須川写真No.13を挙げている。

1 これに対し、検察官は、被告人澤田の本件犯行を裏付ける証拠として、八木、吉田、沖田及び被告人佐村の各検面調書を挙げ、同人らは、被告人澤田が五階エレベーターホールで投石していたのを現認しており、別人と混同することは絶対にあり得ないと主張する。なるほど、八木の検面調書には、「被疑者併列写真神田九四番(被告人澤田)の男は、五階エレベーターホール中央の窓から自分が投げたのと同じ位の大きさ(四〇センチメートル×二〇センチメートル)のブロツク塊を窓下に落とし、本件路地からボコツという音が聞えた時、『当つた。当つた』と自分に向つていい、ニヤリと笑つた」(43・11・26付。43・12・3付。43・12・5付。43・12・6付。43・12・20付)、「澤田は全共闘の水色のヘルメツトをかぶり、目つきがきつく、身体にぴつたりした青色のジヤンパーを着ており、ジヤンパーの一部が濡れていた」(43・12・6付。43・12・20付)、「この時、同ホールに居た者の中で覆面で顔をかくしていた者は一人もなく、顔の一部ではなく、全部を見ている」(43・12・6付)、「自分は、澤田の名前を知らなかつたが、時々本件建物内で見かけ、目つきがきついので印象に残つていた」(43・12・4、5付。43・12・20付)との記載があり、沖田の43・12・10付、43・12・14、15付検面調書には「全共闘のヘルメツトをかぶり、その後、顔を見た時に鋭い目つきをしていた男が、大きな石を投げ下ろそうとしていた。その男は、タオルで覆面をしていた筈で、目つきが印象に残つており、被疑者併列写真の神田九四番(被告人澤田)の男で、五階エレベーターホールの最も東側の窓から幅三〇センチメートル位の塊を落とし、その外、それほど大きくない石を片手で投げたりして合計五回位投石したのを見た。自分は、その投石している澤田の足許に石塊を運んだ」との記載があり、吉田光男の43・12・11付検面調書には「自分が、五階エレベーターホールに石を運んで行つた時、紺色ジヤンパーの男が居て、同ホール中央の窓から直径三〇センチメートル位あるレンガ塊を両手で持ち上げ、上半身を窓の外に乗出すようにして投下していた。この男は、被疑者併列写真の神田九四番の澤田に似ていて、水色ヘルメツトをかぶり、厚ぼつたい生地の、ごつい作り方の紺色ジヤンパーに、ぴつたりした感じのズボンを履き、タオルで覆面をしていたが、ずれたのか口が隠れる位のところに下つていた」との記載があり、また、被告人佐村の検面調書には、「当時エレベーターホールに居た者で、顔のわかつているのは、神田九四番の澤田、同一〇二番の高橋克美、同八二番の鈴山、同九三番の平野、同八五番の八木である」(43・12・8付。43・12・9付)、「澤田については、その後よく考えたところ、投げたところは見ていないが、窓際近くで何かを投げたあと、次に投げる物を取りに行くように背後を振り向いたところを見た記憶が浮んできた。その時、澤田は薄水色のヘルメツトをかぶり、ジヤンパーを着ていたように思う」(43・12・12付)との記載があり、これらの記載からすれば、一見、被告人澤田が五階エレベーターホールで投石したのは疑いないものの如くである。しかしながら、

(1) 同日午前五時三〇分前後の状況についてみるのに、前掲須川写真、中村写真、今写真、川田写真、証人根本安の証言、同人及び佐藤武の各検面調書、その他関係証拠によると、当日午前五時二〇分ころ本件仮処分が開始され、同時二三分ころには、二、三名の執行補助者が本件路地に入り、入館を試みたこと、同時二五分ころ、前記第五機動隊が、本館北側にある日本バプテスト教会前まで歩を進めて待機し、同二八分ころ同機動隊が右執行を援助すべく、本件路地に進入を始めるや否や、内部にいた全共闘の学生らは、二階ベランダ、三、四階の白山通りに近い北側の小窓から、その機動隊員や待機中の機動隊員めがけて、投壜などを一斉に開始したため、同時二九分ころから、本館西北角付近に駐車した放水車から放水が始まり、その放水が断続的にくり返され、これに対しても右学生らは投壜などをして対抗したこと、右機動隊員は一階エレベーターホールの窓から館内に進入しようとしたが、その窓付近にはかなり強固なバリケードが築かれていたため、容易に果せず、間もなく本件路地内には機動隊員が密集する状態になり、同五時三三分ころから三四分ころにかけて前記四階小窓から数個の長椅子などが落とされ、それが同三階の小窓から投壜などをしている学生らの頭をかすめるように落下したことが認められる。次に、同日午前五時二〇分過ぎころから同六時過ぎまでの、本館三階東北角の部屋及びその東側道路の状況についてみるのに、千葉写真、二階堂写真、証人千葉及び同菅原(旧姓二階堂)の各証言並びに被告人佐村の供述によると、第二機動隊の一部は、執行補助者が投石を受けた同五時二五分ころには、本館東北角付近に接近して待機し、同五時三八分ころ、入館すべく東北方向から本館一階に接近したところ、これに対し内部にいた全共闘の学生が同館三、四階の窓などから同六時過ぎまで激しく投石、投壜をくり返し、同五時四五分ころからネツトを頭上にかざして接近した機動隊の一団が、ハンマーを用いた同館東北角付近の板塀を破り始め、同六時前後ころから同時一五分ころまで断続的に機動隊員が館内に進入したこと、その間機動隊の隊長と館内の学生との間に言葉のやり取りがあり、その学生が「機動隊帰れ」などといつたり、撮影をしている私服のカメラマンに対し投石をしたりしたこと、なお、同五時四五分ころから同時四八分ころにかけて本館東方にある電柱のかげに私服のカメラマンが居たこと、同六時二分ころ館内から館外に負傷者を救出したい意向が伝えられたことがいずれも認められる。ところで、被告人澤田は、「前記千葉写真及び二階堂写真中の三階東北角の部屋の小窓から上半身を出している人物は自分であつて、千葉写真No.8及び二階堂写真No.3には、ジャンパーの肩部分にビニールの肩あてがあるのが白く光つており、その外、その仕ぐさ、状況などからみて間違いない」と断定するところ、右写真自体は極めて小さく同被告人と同一人物であるかどうか判別しがたいけれども、右指摘にかかる写真の肩部分は白く光つており、被疑者併列写真集の同被告人の写真(神田九四番)を見ると肩あてらしいもののあることがうかがわれること、その仕ぐさやその場の状況が被告人の供述と一致していること、その他証人押田の証言を併せ考えると、被告人澤田の指摘する右写真の人物が、同被告人である蓋然性は高いといわなければならない。また、被告人澤田が公判廷において、当日目撃した状況として供述するところは、右認定事実に概ね符合し、その供述は具体的かつ詳細であり、その内容も何ら矛盾なく人をして首肯させるものがあり、しかも、同被告人は捜査段階から全くといつて良い程内容的に一致した供述をしており、同被告人の検面調書によると、黙秘していたのを一転して、捜査官に供述するに至つたのは「弁解しなければわかつてもらえないと思つたからである」というのであつて、その内容も非は非として認めるなど真実味が感得できるうえ、前記証人押田、同神田の各証言とも符合しており、被告人澤田の前記供述の信憑性は高いものと認められる。

(2) もつとも、八木らの検面調書中には、被告人澤田が五階エレベーターホールで投石をしていたとの供述記載があることは前記のとおりである。しかし、八木の前記供述記載についてみるのに、被告人澤田の検面調書及び公判供述によると、同被告人は、全共闘の動きに関心をもつてはいたものの、当初からその団体に所属していたわけではなく、判示の昭和四三年六月一一日の一件を目の当りにし、同月一二日から全共闘の活動に参加するに至つたもので、本館には、本件まで六月中及び本件直前の期間を併せて四、五日泊込んだにすぎず、同年七、八月中は専らアルバイトや旅行をしていて、本館に出入しておらず(このことは、同被告人が捜査段階から一貫して述べているところである)、同被告人が全共闘の責任ある地位についていなかつたことが認められ、同大学の学生数が極めて多く、かなり多数の者が、本館に出入りしていたことや吉田の検面調書から明らかなように、八木より上級生で写真研究会の委員長である吉田すら同被告人と面識がなかつたことなどを考え併せると、「八木が被告人澤田を時々見かけ面識を有していた」との八木調書の記載は、にわかに信用し難いし、また、前記八木調書の「五階エレベーターホールに居た者の中で覆面で顔をかくしていた者は一人もなく、顔全体を見ている」旨の記載は、沖田の前記供述記載と矛盾するばかりでなく、前記各写真から認められる当日の全共闘学生らの覆面の状況に徴すれば、右ホールに居た者だけが覆面で顔をかくしていなかつたとは考えられず、右供述記載には、その認識の正確性を強調するための作為が感ぜられ、たやすく信用することができない。そして、先に検討したように八木の検面調書の信憑性については、かなり疑問があり、特に高橋克美に関する具体的、詳細な供述記載に多大の疑問があることなどを考え併せると、八木の被告人澤田に関する認識の正確性にも疑念をさしはさまざるを得ず、前記供述記載を断罪の証拠とするには躊躇せざるを得ない。次に、沖田の前記供述記載についてみるのに、沖田による被告人澤田の特定は、「その男が覆面をしていて、目つきが鋭かつた」という印象を頼りに被疑者併列写真集の中から選別してなしたものであつて、本件以前に面識を有していなかつたことが、右供述記載から明らかであるところ、沖田の前記検面調書には、被告人澤田の特定と並んで「覆面をしてヘルメツトをかぶつた男は、写真綴の神田一〇一番(田村)と神田一〇二番(高橋克美)のうちの一人である」と五階エレベーターホールに居たことにつき極めて疑問のある者を「居た」と特定した記載があり、目つきをたよりになした被告人澤田の特定が誤りないものかどうか疑問とせざるを得ない。また、吉田の前記供述記載をみるのに、吉田による被告人澤田の特定は、紺ジャンパー等の服装、背格好等を特徴として、被疑者併列写真集の中から選別してなしたものと認められるところ、吉田の前記検面調書には被告人澤田の特定と並んで、「顔だちやジヤンパーの様子から、私の記憶に残つている者に近く、確か五階エレベーターホールで見かけていると思う」として神田一〇二番の高橋克美を前記併列写真集の中から選択特定した記載があり、被告人澤田の特定についても、沖田の検面調書と同様、疑問とせざるを得ない。そして、その当時、八木が取調官に対し、被告人澤田や高橋克美について、同旨の供述をしていることを考えると、右沖田、吉田らが、正確な認識がないまま、取調官に迎合して前記のような供述をしたのではないかとの疑念も払拭することができない。最後に、被告人佐村の前記供述記載について検討するのに、なるほど、被告人澤田は、本件当日同佐村の班に属していた者であり、同被告人澤田を別人と混同したり誤認したりするおそれは殆どあり得ないと思われるのであるが、被告人澤田が居たとする被告人佐村の供述記載は具体性がなく、自分の班に属する者を見たというにしては甚だ頼りないものであつて、確たる記憶に基づくものか否か疑わしいのみならず、同被告人の43・12・6付検面調書には「犯行現場では興奮状態にあつたので共犯者のことはよく思い出せない。」との、43・12・8付検面調書には「はつきり覚えていないが、高橋克美、澤田、鈴山(被疑者併列写真集82)、平野及び八木が居たように思います。」(具体的な行動は記載されていない。)との、43・12・9付検面調書には「前記五名の者が犯行当時五階エレベーターホールに居たが、自分はこれらの者がレンガやブロツク塊を投下したかどうかはつきりした記憶がない。しかし、機動隊の進入を防ぐためにはレンガ塊などを投下せざるを得なかつたのであるから、彼らも同様に投下したのではないかと思います。」との、43・12・12付検面調書には「八木、高橋、澤田の顔は見たような記憶があります。鈴山については顔をよく見たように申しましたが、その後よく考えてみますと同人の顔を本当に見たのかどうかだんだん自信が薄れてきました。」との記載があつて、供述内容の変遷が大きいうえ、同所に居たとは思われない鈴山や高橋克美と共に被告人澤田の名を挙げ、最終段階に至り、鈴山については、右のようにあやふやな供述に変化する反面、被告人澤田については、記憶が浮んだと述べているところからすると、被告人佐村が、確たる認識がないまま取調官に迎合して供述した疑いが残り、同被告人の被告人澤田に関する前記供述記載も、にわかに信用することができない。

2 なお、検察官は、被告人澤田の前記供述中、同被告人が三階西側から同階東側へ移動した理由につき「西北角小窓付近には、多数の者がいて投げにくくなつたので三階の手薄なところへ行こうと思い東側へ行つた」としている部分は極めて不合理であるというのであるが、被告人澤田は捜査段階から一貫してそのように供述しており、しかも、当時、東北方向からも機動隊の一団が接近していたのであるから、その方面でこれを牽制していたとしてもあながち不合理ということはできず、証人神田充王の証言によると、現に、同人や鈴木憲六も機動隊員が本件路地の白山通り入口付近に接近したのを認めながら同階東北角の部屋に移動していることが認められるのであつて、被告人澤田の弁解を一概に排斥することはできない。

3 また、検察官は、証人押田光久は捜査官に対し、調書の作成は拒否したものの、本件建物内で澤田と行動を共にしたことはないと述べていたし、また、右神田証人は公判廷において、本件当時、三階東北角の部屋で投壜したり、それを目撃したりしたと述べているが、その部屋の位置が捜査段階における自筆の図面(43・9・13付)の位置と異なつているので、その証言の信憑性には疑問があるというけれども、前者については調書の作成を拒否したことは認められるが、検察官主張のように押田が被告人澤田と一緒に行動したことはないと述べたという証拠はなく、後者については、確に図面の位置が異なることは所論のとおりであるが、神田は福島県郡山所在の日本大学工学部の学生であつて、本件前日偶々本館を訪れたものであり、本館を常用していた者ではないのであるから、右図面の位置が不正確なことをもつてその証言の信憑性を滅殺する決定的理由ともなし難い。

4 以上の次第で、検察官が被告人澤田につき挙示する各証拠は、同被告人の前記弁解を排斥し、断罪の証拠とするには、薄弱といわざるを得ず、他に同被告人の本件犯行を認めるに足りる証拠はない。

(五)  被告人塙について

弁護人は、被告人塙は本件当時、本館二ないし四階に居たものであつて、五階エレベーターホールには行つていないから、同館五階エレベーターホールでの現場共謀ということはありえないとし、同被告人も次のとおり弁解し、その中で掲げる各写真及び証人楠木哲雄の証言など関係証拠によつてこれが裏付けられると主張するので検討する。

即ち、被告人塙は、「仮処分の強制執行が告知されたため、持場である三階を一巡したりしたのち、同階西北角にある部屋の小窓から機動隊が本件路地に入つている状況を目撃した(須川写真No.3は塙と高橋、中村写真No.14は塙と楠木)。その時、白山通りには、本件路地の西側に機動隊の指揮官車と放水車が駐車しており(43・12・12付吉田調書添付「二本目のフイルム」のNo.25ないしNo.27)、当日午前五時二九分ころ右放水車から激しい放水を見舞われたため右窓をしめた(中村写真No.15)。同五時三〇分ころ、四階男子便所脇の消火栓の所へ行き、そこから同階の白山通りに面した北側から二番目の部屋に、右消火栓につないであつた二本のホースのうち一本を運び込み、窓から前記放水車からの放水に対抗して放水をした(中村写真No.16ないしNo.20)が、間もなくその窓にホースを垂らしたまま放置し(同No.21)、鈴木正已と共に同階西北角の部屋の北側小窓にもう一本のホースをセツトしたうえ、同階エレベーターホールに築かれたバリケード用の机、椅子などを取りはずして、右北側小窓からその各一個を投下したりしたのち、同時三五分ころ、楠木に右ホースを渡してそこを離れ(須川写真No.13は鈴木正已((以下同じ))と楠木、同No.16は鈴木、同No.17は楠木)、自分の持場である三階の東南角の部屋に戻り、数人の学生と共に、機動隊員が数名入つている鳥籠めがけて投石などをした。その際、自らも小石を二個位投げた(千葉写真No.1、No.2)。それから、本件路地入口のことが気になつたので、再び四階西北角の部屋に赴き、北側小窓(岩田写真一―36、同三―31、須川写真No.26、No.28、今写真24)や白山通りに面した最も北側の窓(岩田写真四―3、4、川田写真No.10、斉藤写真No.16、No.19)から白山通り路上で消火栓による放水をしている機動隊員などをめがけて放水をしたり、持場の三階を一巡したりしたのち、学生会室前で、そこに放置してあつたヘルメツトにかぶりかえて間もなく屋上で逮捕された。」と述べている。

これに対し、検察官は、被告人塙の犯行を裏付ける資料として、八木、吉田及び被告人平野の各検面調書を挙げ、特に、八木、吉田は釈放後、透視鏡を使つて被告人塙が本件共犯者であることを確認しているのであるから、別人と誤認することはないと主張するので検討するのに、八木の43・11・26付及び43・12・3付(いずれも一五枚綴のもの)検面調書には「五階エレベーターホールで投石していた者は、併列写真集の神田七五番、同九四番、八七番、九三番、一二二番、八八番、一〇二番、一三二番(塙)で、神田一三二番は経闘委のリーダー格でした」との記載が、八木の43・12・4、5付検面調書には「写真集の神田一三二番の塙は、佐村や高橋らと五階エレベーターホールの一番白山通り寄りの窓から盛んにブロツク塊を投下していた。塙という学生は、デモの際などにアジ演説をしていたのを見たことがあり、九月三日午後九時ころ、本館に入る際、東側通用口で見張り役をしていたので顔を知つていた」との記載が、八木の43・12・6付検面調書には「塙ら五名は水色の全共闘のヘルメツトをかぶつていた」との記載が、八木の43・12・20付検面調書には「塙の当日の服装は水色の全共闘のヘルメツトをかぶり、青色のジヤンパーを着ていた」との記載(なお、その外、前記43・12・4、5付調書のそれと同旨の記載もある)があり、吉田の43・12・11付検面調書には「前記ホールにおいて、大きなレンガ塊を持ち、最も西側の窓に行つたヘルメツトをかぶり、水色のジヤンパーを着たそれほど背の高くない男は、併列写真の中で服装からそれに近いものを探すと神田一三二番の塙が私の記憶に一番近い。自分は本件前、塙を全共闘の集会で、アジ演説をする人のそばに居たのを見ている」との記載があり、また、被告人平野の43・12・4、5付検面調書には「自分が同ホールから下を眺めていたら、白いヘルメツトをかぶつた学生から『お前も投げろよ』と指示された。その男は写真でみると神田一三二番(塙)の学生のように思う」との記載と、訂正申立てとして「神田一三二番の学生のように思うと言つたが、これは単なる憶測で、明確な記憶として残つていない」との記載が、同被告人の43・12・9付検面調書には「前回余り記憶がなかつたので訂正してもらつたが、当時の場面をよく思い起してみると、やつぱり神田一三二番の塙が居たような気がしてならない。私が本件路地を眺めていた時、後の方で、かなりきつい語調で『おい、お前も投げろよ』といつた学生が塙のような気がする。塙とは逮捕される少し前、四階廊下で会い、機動隊が来たというので一緒に逃げたことがあり、その時、塙の顔を見て、さつきエレベーターホールで『お前も投げろ』と言つた奴だなと思つたことが若干記憶に残つている。また、花壇から石を運ぶ際『おい、石を運べよ』と言つた学生も同じ学生であつたような気がする。塙は、デモなどで見ていたせいか若干顔を知つていた」との記載が、平野の43・12・13付検面調書には「塙は、ヘルメツトの耳だれや手拭のあごへのかけ方が他の学生と一寸変つているように見えたし、機動隊が三階から上つて来て階上の方に逃げる時一緒だつたことを覚えており、従来、デモの時にもちよいちよい見かけた」との記載がある。しかしながら、右吉田調書の記載が、被告人塙の犯行を裏付ける確証となり得ないことは、その記載内容自体から明らかであるし、被告人平野の調書のそれは、「憶測であつて明確な記憶が残つていない」とか、「そのような気がする」とか、あるいは「若干記憶がある」とかいうものであり、特に、43・12・4、5付調書では、わざわざ訂正方を申入れていることなどを考えると、被告人平野が、被告人塙が同ホールに居たことにつき確信がなく、記憶不鮮明のまま供述したものと認めざるを得ず、断罪の証拠とするには甚だ頼りないものと評さざるを得ない。また、八木調書については、その信憑性に疑問があり、たやすく信用し得ないものを含んでいることは、既に指摘したとおりであるうえ、沖田、高橋、被告人平野、同坂井、同佐村、同澤田、同米丸らについては、その行動等につき、かなり具体的な供述記載があるのに比し、被告人塙に関しては、「佐村や高橋と盛んに投石していた」との抽象的な記載があるに過ぎず、具体性、現実性に乏しいとの感を免れることができない。

これに対し、被告人塙の前記供述は、具体的かつ詳細であつて、客観的状況にも符合し、特に矛盾する点も認められず、同被告人が指摘する写真からは、その指摘の人物が、同被告人であるかどうか判然としないが、同被告人が行動を共にしていたという鈴木正已や楠木哲雄については、ヘルメツトの形状、その文字、タオル、服装などから、概ね同一人物であることが認められ、その場面の状況や証人鈴木正已、同楠木哲雄の各証言を併せ考えると、被告人塙が指摘する人物が同被告人である可能性を否定し難く、同被告人の前記供述を単なる弁解として排斥することはできない。

以上のとおり、検察官の挙示する証拠は、被告人塙の前記供述を排斥して、同被告人の本件犯行を認定するには余りにも薄弱であり、他に同被告人が本件犯行に加担したことを認めるに足る証拠はない。

四  結論

以上検討したところから明らかなように、本件公訴事実記載の警察官一九名(西條秀雄を含む)の受傷が、いずれも五階エレベーターホール窓からの投石等によるものであつて、その受傷時刻は当日午前五時三〇分ころから同五時四五分ころまでの間であると認められるが、被告人澤田、同塙の両名については、同被告人らがその時間帯に同ホールに赴き本件犯行に加担したと認めるに足る証拠はなく、被告人平野、同坂井については、同被告人らが同ホールに赴き、投石等の犯行に加担したのは同日午前五時四〇分過ぎころと認められ、また、被告人米丸、同佐村については、同被告人らが、当日午前五時四〇分過ぎころには既に同ホールに居て、本件犯行に加担していたことは認められるが、いつ、どの段階から右犯行に加担したものかを証拠上明らかにすることができない。

そうすると、本件訴因を前提とする限り、被告人澤田、同塙については、犯罪の証明がないことに帰し、その余の被告人四名については、いずれも同日午前五時四〇分以前の点については犯罪の証明がなく、同五時四〇分過ぎ以降の点についてのみ、その責を問い得るに過ぎないものと解される。しかるところ、本件受傷(死亡)者中、森岡、脇本、星、阿部の四名の受傷時刻は、同日午前五時三〇分ころから同五時三五分ころまでの間であり、志水、酒井、小原、西城、西條、徳永、坂入、矢吹、田北の九名の受傷時刻は、同五時三五分ころから同五時四〇分過ぎころまでの間と認められるから、被告人平野、同坂井、同佐村、同米丸ら四名については、同被告人らが本件犯行に加担したと認められる同日午前五時四〇分過ぎ以後に受傷したことが明らかな別紙受傷警察官一覧表記載の六名に対する犯行について罪責を問い得るにとどまり、その余の前記一三名に対する犯行(西條に対する傷害致死を含む)については犯罪の証明がないことに帰する。

ところで、判示罪となるべき事実の第一において認定したとおり、当日、日本大学経済学部本館では、午前三時ころから、本館三階三三番教室に約六〇名の全共闘の学生らが集まり、仮処分の執行にあたる執行官やその援助にあたる警察官らに対し、投石、投壜等の方法により抵抗することを確認したうえ、同日午前五時二〇分ころから同日午前六時一五分ころまでの間、全共闘学生らによつて本館各階から右執行官及び警察官らに対し、投石、投壜等の抵抗がなされたことが認められ、本件訴因の、五階エレベーターホールにおける犯行は、同所以外でなされた右抵抗行為と全く別異のものではなく、これら一連の抵抗行為の一部と認められるから、本件訴因に関し被告人ら六名について犯罪の証明がないとした部分についても、共謀の点(その時期、場所等)につき訴因を変更することにより、いわゆる共謀共同正犯として責任を問い得る余地があり、また、その犯行の時間、場所、犯行態様等につき訴因を変更することにより被告人らが、当日五階エレベーターホール以外の場所でなした投石、投壜行為等につき、その責を問う余地も全くないではない。しかしながら、本件審理の経過即ち、検察官は、本件審理の当初から、当日の日本大学経済学部本館における全共闘の学生らによる執行官及び警察官らに対する投石、投壜等の犯罪行為のうち、五階エレベーターホールにおけるそれは、同所以外の場所でなされたものとは全く別個の犯罪であつて、同ホールにおける現場共謀に基づくものであると主張し、被告人らが、これを前提として防禦手段を講じてきたものであること、検察官が本件第五四回公判において、被告人らにつき、前期の如き訴因を変更する意思がないことを表明していること及び当日の経済学部本館における投石等の犯行に関与したもののうち、本件訴因で公訴を提起されたものは、いずれも当日五階エレベーターホールに居て、投石等の犯行に加担したとされた者のみであつて、同ホールに居なかつたのにかかわらず、いわゆる共謀共同正犯としてその責任を問われたものがないこと等の事情を勘案すれば、本件につき訴因の変更を命ずることが妥当な措置であるとは考えられないので、訴因の変更を命じないこととし、本件訴因について、その罪責の有無を明らかにするにとどめることとした(なお、被告人佐村については、五階エレベーターホール以外の場所での犯行につき昭和四三年九月一五日付起訴状により公務執行妨害罪として起訴されているが、右ホールでの本件犯行については、他の被告人との権衡上同様に扱うこととした)。

以上の次第であるから、被告人澤田、同塙については犯罪の証明がないことに帰するので、刑事訴訟法三三六条により同被告人ら両名に対し、無罪の言渡をすることとする。なお、被告人米丸、同佐村、同平野、同坂井の四名については、本件公訴事実中、別紙受傷警察官一覧表記載の六名を除くその余の一三名に対する部分は犯罪の証明がないことに帰するが、公務執行妨害罪は包括一罪として、また右一三名に対する傷害又は傷害致死は右公務執行妨害と観念的競合の関係にあるとして起訴されたものと認められるので、主文において無罪の言渡しをしない。なお、被告人佐村は、昭和四三年九月一五日付起訴状により公務執行妨害罪で、同年一二月一三日付起訴状により公務執行妨害、傷害、傷害致死の各罪で各起訴されたものであるところ、前示のとおり、右両公務執行妨害罪は包括一罪と認められるが、後者の起訴は、実質上訴因の追加と解されるので、同起訴につき、刑事訴訟法三三八条三号による公訴棄却の判決をしない。

(弁護人の主張に対する判断)

一  公務執行の違法性について

弁護人は、(1)本件仮処分決定には、債務者として、日本大学全学共闘会議、日本大学法学部第一部闘争委員会、日本大学法学部第二部闘争委員会及び日本大学経済学部闘争委員会と表示されているが、右団体には当事者能力がないから、右仮処分決定は当事者能力のない団体を対象とした違法があり、(2)本件仮処分は、日本大学の大学の自治を前提にして、所有権等に基づく妨害排除請求権等を被保全権利とするものであるところ、日本大学は自ら大学の自治を踏みにじる行為をし、同大学には大学の自治はなかつたのであるから、右仮処分決定は、被保全権利がないのになされた違法があり、(3)係争物に関する仮処分では、審尋の審理方法がとられるのが通常であるところ、東京地方裁判所民事第九部は、全共闘の代理人である弁護士が、同部に対し、もし日本大学から仮処分申請が出された場合には必ず審尋をして欲しいとの書面をあらかじめ提出したのにかかわらず、審尋をしないで右仮処分決定をしたのであるから、債務名義自体及びそれに至る過程に違法があり、(4)被告人平野及び同坂井は勿論、八木、吉田、沖田らは本件仮処分の債務者である全共闘に所属していないから同人らに右債務名義の効力が及ばないことは明白であるのにその執行を強行したものであり、また、本件仮処分の執行はいわゆる夜間執行として行われたものであるのに、その際その命令を債務者に示すなどの手続がなされていないのであるからその執行方法も違法であると主張するけれども、(3)の点は裁判所の裁量に属する事柄であるし、(2)の点は、大学の自治が被保全権利そのものではなく、大学の自治と仮処分決定との間には何ら関連がなく、(1)の点に、当事者能力に微妙な問題を含むとしても、それは民事訴訟手続で争われるべき事柄であつて、右仮処分決定を無効ならしめるような重大かつ明白な瑕疵といえないものであることは明らかであり、また(4)の点は被告人平野及び同坂井らに債務名義が及ばないこと並びに本件仮処分が夜間執行であることは所論のとおりであるが、同被告人らは判示のとおりその執行官やその補助者及び援助者に暴行を加えその執行を妨害したものであるから、その債務名義が及ばないからといつて、本件犯罪の成否に消長はなく、その他本件仮処分の執行にも何ら違法のかどは認められないから、弁護人の右主張は理由がない。

二  実質的違法性の欠如について

弁護人は、被告人らは大学運営の民主化を意図したもので目的が正当であるうえ、被告人らが護ろうとした大学の自治という利益と、被告人らが妨害した建物所有権という利益とを比較すれば前者の利益が優ることは明らかであり、かつまた、日本大学が学生らとの間に一旦話合の約束をしながら、一方的にこれを破棄し、本件仮処分の執行に名をかり、日大闘争を圧殺したものであつて、被告人らの本件行為はこれに抵抗するためやむをえずに出たもので、他に適当な手段がなかつたことが明らかであるから、被告人らの本件行為は実質的違法性を欠くと主張するが、いかにその目的が正当であり、かつ、その護ろうとした利益が重要であつたにしても判示の被告人らの行為が社会的に相当な範囲を逸脱していることは明らかであつて、しかも、他によるべき手段がなかつたともいえないから、弁護人の右主張は採用することができない。

よつて、主文のとおり判決する。

(別紙)一

受傷警察官一覧表

番号 被害者     受傷内容

階級 氏名 年令(当時) 傷病名 加療期間(約)

1 巡査部長 中村良隆 33 左前腕及び右手背、右下腿打撲 一週間

2 巡査 北川清逸 26 右膝部打撲傷、右手部挫創 一〃

3 巡査部長 穂満弘二 33 左肩胛部打撲擦過傷 二〃

4 巡査 藤川正美 24 左手背挫傷、右足打撲 三〃

5 〃 及川善喜 24 左第二中手骨骨折、頸椎捻挫、右肩関節打撲傷、左肩胛部挫傷、右手背打撲傷 四か月間

6 巡査部長 望月一男 28 頭部外傷、頸椎捻挫 二週間

(別紙)二

訴訟費用明細書

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